「キリストのご訪問」                          2023 年 5 月 7 日 瑞浪伝道所礼拝

     ルカ福音書 19 章 1~10 節

 

今日の聖書で、キリストが一人の人と出会っておられる。ザアカイという人である。聖書の信仰は、 出会いの信仰だと言われる。神との出会いである。神との出会いが、人との不思議な出会いによって準備 されるということもある。いずれにしても、出会うこと。出会いを大切にする。出会いを喜ぶ。出会いの 中に真実を見いだす。それが聖書が語る信仰の重要な道筋である。言葉を換えれば、私たちは本当の出会 いを願っている。人は、真実な出会いに飢えている。

 

今朝の聖書の人物。ザアカイという人も、やはり本 当の出会いに飢えていたのではないか。 この人はエリコという大きな町で、徴税人の頭であった。エリコという町は、東西への道、南北への 道、二つの大きな道が交わる場所にあった。人と物が、ここを通って流通する。その意味では、エリコと いう町は、人が出会い、物が流れる。出会いという点では、大変恵まれた場所にあった。ザアカイは、こ の出会いの町で、大変成功している人である。金持ちである。しかし、まだ人生を揺るがすような出会い を知らない。本当の出会いを、待ち焦がれていた。「イエスがどんな人か見ようとした」。「イエスがどん な人か」。それを知りたいと思った。

私たちがこうして、日曜日の礼拝に集まってくる。ここで聖書を一 緒に開く。それは何のためか。「イエスがどんな人か」。それを探求しているのである。聖書の中心人物で あるイエスという方は、一体どんな人か。それは「キリスト教とは何か」という質問と同じである。「イ エスがどんな人か」。それは信仰を求める人の合言葉である。

 

ザアカイという人について、すでに世間では相場が決まっていた。徴税人の頭。そして金持ちである。 イエスは、18 章 25 節で言われた。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易し い」。弟子たちはこれを聞いて驚いた。「それでは、だれが救われるだろう? 」。イエスはそれに対して、 「人間にはできないことも、神にはできる」と答えておられる。ザアカイについて、世間の人の考えでは、 一番救われる望みの薄い人である。徴税人の頭は、悪人、罪人そのものと考えられた。自分もユダヤ人で ありながら、同じユダヤ人から税金を取り立てる。その税金は、ローマの国の収入になる。何よりも、徴 税人は、悪賢く取り立てて、自分の腹を肥やす。ザアカイも、あとでそのことを認めている。 ザアカイを見る世間の目は冷たい。はじめから、この人間はいかがわしいと決め付けている。悪い人、 穢れた人、そういう目で人々はザアカイを見ている。先入観である。徴税人に救いはない。それこそ、ら くだが針の穴を通るよりも難しい。

 

しかし、イエスという方は、ザアカイを決して色眼鏡で見なかった。 キリストの目に映ったザアカイは、「失われた人」だった。悪いやつとか、ズルイ人間という、世間で言 われているザアカイの姿とは別のところに、ザアカイの真実の姿を見ておられる。「人の子は、失われた ものを捜して救うために来た」とキリストは言われる。失われた人ザアカイ。ザアカイ自身は、自分のこ とを失われた人とは思っていない。自分は、努力して金持ちになった。世間からどう見られようが、自分 は自分で生きている。しかし、そのザアカイが、イエスを見たいと願っている。 ザアカイは、イエスを見たいと思ったが、背が低くて見えなかった。それで、先回りして「いちじく 桑の木」に登った。人から蔑まれているとはいえ、ザアカイはこの町の有力者である。お金持ちである。 すでにかなりの年齢にもなっていた。そういう人が、走っていって木に登る。これは恥ずべきことである。 はしたないことである。

 

しかし、ザアカイは、なりふり構っていられない。イエスを見たい、イエスを知 りたい。その一つのことに夢中になっている。我を忘れている。この我を忘れたザアカイの様子を、キリ 2 ストがどんなに喜ばれたか。神を求める人生、信仰に生きようとする人間。その大切なあり方を、ザアカ イははっきり示している。取り澄ましてはいられない。夢中になってしまう。夢中になって初めて、本当 の出会いも起きる。 ザアカイが、夢中になっている。そして、ザアカイと出会われたキリストも、いわば夢中になってく ださる。今朝の聖書の最後の言葉(10 節)、「人の子(キリスト)は、失われたものを捜して救うために 来たのである」。ザアカイは、失われた人だった。人生を見失っていた。自分を見失っていた。神との出 会いに憧れながら、そのチャンスが一度もない。人生の建て直しを願っているのに、誰も耳を傾けてくれ ない。ザアカイに、新しい人生などあるはずがない。そのように決め付ける人々だけ。ザアカイの苦しい 心、淋しい心に気づいてくれる人はいなかった。

 

ザアカイが登っている木の下に来ると、キリストは立ち止まってザアカイを呼ばれた。「ザアカイ、 急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。急ぎなさい。今日、というこの日の出 会いを、大切にしてほしい。これがキリストの心、神の心である。急ぎなさい。これは神さまがせっかち なのではない。神様の恵み、神の愛は、もうあなたに届いている。神の恵みの中に、ためらわずに入って 来なさい。これが「急ぎなさい」という言葉の意味である。ザアカイは、勿論、この素晴らしいチャンス を、取り逃がすつもりはない。驚いて木から下りた。信じられない出来事が起きようとしている。 ザアカイ、急ぎなさい。今日はぜひ、あなたの家に泊まりたい。

 

キリストが、ザアカイのような人の 家に泊まる。そんなことを考える人は誰もいない。誰も予想しなかったことが始まる。私たちが、聖書を 開き、信仰の扉をたたく。それも、誰も予想しないことである。何よりも、私たち本人が、決して予想も 計画もできないことが始まる。聖書と出会う、神さまに心を向ける。それは、まったく私たち自身が予想 しなかった出来事である。だから、神との出会いは、神さまの導きである。神が私たちの心に働いてくだ さった。教会に行くなど、考えもしなかった私たちに、教会への道を示してくださる。 「あなたの家に泊まりたい」。これが、キリストの訪問である。

 

私たちの人生にも、キリストの訪問 がある。ある日、思いがけない形で、キリストが私たちの人生の扉を叩かれる。この訪問を受けなければ、 ザアカイの人生は光のないままである。キリストの訪問を受け入れる。そのとき、ザアカイの人生に変化 が生まれる。変わらないと思われる人生が変わる。ザアカイの人生にも、解決されていない問題があった。 自分の生活はこれで良い、と納得できる生活から遠かった。 一家の主人が、自分の生活に納得していなければ、その心配や不満は、家族全体に影響する。

ザアカ イは、一面では人生の成功者である。お金持ちになった。お金だけで問題が解けるなら、何の悩みもない。 しかし、ザアカイの生活には、光もあれば影もある。どの人の生活も同じである。何から何まで、一つの 不足も無い。そういう人生はあり得ない。何もかも満足という生活もあり得ない。一人の人生もそうであ り、一つの家庭、家族の歩みもそうである。 ザアカイは、キリストの訪問を受けた。そして、自分の人生を、まったく新しく見つめるチャンスを 与えられた。

今までのザアカイは、人をごまかし、世間を欺いて、お金を溜め込んできた。「ザアカイ」 とは「清い人」という意味である。しかし、誰もザアカイが清い人だとは思っていない。ザアカイ自身だ って、自分を清い人間だとは、思えなかった。しかし、このように生きるほか仕方ない。他にどんな人生 があるか。ある意味で開き直っている。

 

しかし、キリストが訪問してくださった。そして、全く新しい体 験、つまりイエス・キリストを自分の家に宿すという体験が始まった。「罪深い人間の家にキリストが入 って行った」。これは、エリコの町中の話題になる。とんでもない悪人の家に、キリストが入って行った。 ザアカイの驚きは、どれほどだったか。もう開き直る必要はない。強がって見せる必要もない。

 

ザアカイがキリストの訪問を受け入れた。つまりキリストを信じ、神様を信頼する人になった。そこ で何が始まったか。生きる目当てが変わった。8 節で「ザアカイは立ち上がった」とある。

立ち上がった。 新しい人生が、ここに開けた。貪欲にお金を貯めるだけの生活が、変化した。神さまに愛されている。神 さまが、自分のすべてを知っておられる。それが分かったとき、自分だけ良かれ、という生活から自由に される。人のことを考えてあげる人になる。誰かの苦しみに心を開く人になる。

この変化は、明らかに一 つの奇跡である。自分が、これまで蓄えた財産の半分は、貧しい人に施します。だれかから騙し取るよう なことをしていれば、それを 4 倍にして返します。 「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」。アブラハムは、聖書で最も 尊敬される人。信仰の父。それで、ユダヤ人は自分がアブラハムの子孫であることを誇りにした。勿論、 ザアカイがアブラハムの子だと認める人は誰もいなかった。

 

しかし、キリストは認めてくださる。あなた は神さまに愛されている。あなたは、神さまに見いだされた。あなたはもはや、失われた人ではない。キ リストは、この人を捜して、ついに見つけてくださった。神様の愛の中へ、連れ戻してくださった。 これが、イエス・キリストの救いである。最もアブラハムの子どもらしくない人間。しかし、この人 がアブラハムの子だ、とキリストは宣言される。つまり新しい人として発見される。見つけ出してくださ った。

 

聖書の中に、キリストが失われた一匹の羊を探す話しがある。失われていた一匹。そのまま忘れら れても仕方ない。しかし、キリストは、仕方ないでは済まさない。失われているものを、どこまでも捜し てくださる。エリコの町で、ごった返す群衆の中で、ザアカイ一人を、探しておられた。失われた人を、 決してキリストは忘れない。神は、私たちのことを忘れていない。 人からは、忘れられても仕方ない。見失われても、取り返しがつかない。一度失ったら取り戻せない ものがある。失われた家族、失われた記憶。失われた仲間たち。人間の力では、どうしても取り返せない ものが、現実にある。それが悲しい。それが悔しい。何かを失うという問題は、決して小さくない。失わ れたままの人生、失われたままの私。私たちの人生も、キリストに出会うまでは、流されている人生、漂 流していた人生ではないか。失われたまま、このままで人生を終わってよいのか。それでよいか、という 問いかけを、今こそ私たちは受け止めなければならない。

 

キリストは言われる。私が来たのは、失われた ものを捜して救うためだ。キリストは、失われたものを取り戻してくださる。傷ついたものを癒してくだ さる。失われた人間の典型であったザアカイ。この人を、失われたままにしておかない。それは神様の御 心ではない。失われたものを見つけるまで、探しておられる。そして神様は、私たちを必ず見つけてくだ さる。 ザアカイの人生、ザアカイの家は、明るさを取り戻した。

そこでどうなるか? 神様の前で、そして 人の前で、謙遜になり素直になる。私のように小さな者を、神様はありのまま受け入れてくださった。こ の「ありのまま」ということが、神様の恵みである。私たちの存在を、丸ごと受け入れてくださる。何も 隠し立てする必要がない。私たちの生活の喜びも悲しみも、神さまから隠れてはいない。喜びにも悲しみ にも、それぞれ大切な意味がある。そこに生まれるのは、大きな安心である。心と人生の平和である。

 

キリストは、ザアカイに何の注文もなさらない。「ああせよ、こうせよ」と言わない。ただ、一晩泊 めてほしい、と願っただけである。聖書の信仰は、この単純さが鍵である。キリストを受け入れたら、そ こからおのずと変化が始まる。自分も変わり、家も変わる。人生の見通しが明るくされる。そのような変 化が、私たちの生活の中で、静かに、しかし確かに始まっている。それは、神さまが、今も私たちの生活 の中で働いておられる印である。神様は遠くない。普段の生活の中に、新しい恵み、深い感謝と喜びをも たらすために、今日も、明日も、働いておられる。