礼拝を考える(19)「エズラ記の礼拝  生の行き詰まりを打開する礼拝  201947日 瑞浪伝道所 学び資料

 

      エズラ記3113節                              担当 小野静雄

 

 

 

1.捕囚の試練と、再生への道は?

 

紀元前538年、ペルシャ王キュロスは、バビロン時代に捕囚されたイスラエルの民に、エルサレムへの帰還を命じる布告を出した。同時にキュロスは、エルサレム神殿の再建に取り掛かることを許可し、再建のために必要な種々の配慮を示したという。この命令は、歴代誌下の最後の部分に記され、さらにエズラ記の冒頭にも繰り返されている。「ペルシャの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。・・・あなたたちの中で主の民に属する者はされでも、エルサレムにいますイスラエルの神、主の神殿を建てるために、ユダのエルサレムに上って行くがよい」(エズラ記123節)。このような布告が、異邦の王によって出されたことは不可思議なことに思われる。ペルシャは広大な版図はんと をもつ帝国であるが、広い帝国を統治するために、それぞれの民族に、ある程度の自治を与えること、さらに文化や宗教についても、それぞれの伝統を守って生きることを許したのである。

 

エルサレムに戻った人々が、まだ生活の再建もおぼつかない中で、最初に取り組んだことは礼拝の再開である。2世代におよぶ捕囚の苦しみを味わってきた人々である。都を失い、神殿は破壊された。異邦人の中で苦難を味わい、どん底の苦しみを経験したのである。生活の苦しみ以上に、イスラエルの民が味わったのは、社会を結びつけていた全てのものを失ったことである。捕囚という試練は、見えるものを奪い去っただけでなく、それ以上に見えないものを失う経験をもたらした。深い喪失感の中で、家族、民族、文化と宗教の伝統、つまり自分が自分であるという確信がゆらいでいる。全体としての人間が崩れ、傷つき、そして荒廃しているのである。捕らわれていた人々が、エルサレムに戻ったとき、そのような痛手を回復する手立てを、どこに見出すことができるだろうか。それが問題の中心であった。

 

 

 

2.祭壇の再建と、生活の再建

 

エルサレム神殿の再建は、想像を超える難事業である。神殿が最終的に再建されるまでの道のりは、決して平坦なものではなかった。さまざまな妨害があり、工事は中断された。その間に、ペルシャ王の交代も重なり、帰還した民の指導者の、エルサレム再建への苦闘は並大抵のものではなかったと思われる。このように苦闘するイスラエルの民を励ましたのが、ハガイやゼカリアなどの預言者活動であった。「今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せと主は言われる。・・・働け、わたしはお前たちを共にいると万軍の主は言われる。ここにお前たちがエジプトを出たとき、わたしがお前たちと結んだ契約がある。わたしの霊はお前たちの中にとどまっている。恐れてはならない」(ハガイ書145節)。

 

礼拝があれば、不安と怖れのなかでも何とか生きられる。それが、神の民がそれぞれの歴史と試練の中で、繰り返し経験した恵みの事実である。エルサレムの再建という大きな事業に召された人々にとって、生活の再建と礼拝の再建は、二つにして一つの課題であったと思われる。全てを失ったいま、人間自身を取り戻すための祈りと戦いがある。しかしそれは、神と共にあるという確信なしにはあり得ないことである。どん底の、ゼロからのやり直しの生活。そのような生活の、どこに立ち直りの手がかりを見出せるか。神への祈りと礼拝いがいに、生きることへの確かな手ごたえを得ることはできない。

 

 

 

3.礼拝再建の始まりとしての「仮庵祭 かりいお さい

 

神殿の再建にとりかかる際に、イスラエルの人々が献げた礼拝は、「仮庵祭」と呼ばれる特別な礼拝である。「書き記されているとおり仮庵祭を行い、定めに従って」とあるのは、レビ記23章に定められた慣習のことであろう。「あなたたちは7日の間、仮庵に住まねばならない。イスラエルの土地に生まれた者はすべて仮庵に住まねばならない。これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々よよ の人々が知るためである。わたしはあなたたちの神、主である」(4243節)。これは、7月に行われる祭りである。イスラエルの歴史(救いの歴史)の大きな節目になる時が選ばれている。何よりも、出エジプトという苦難からの救いを、時を定めて記念し感謝するのである。こうして「時」を選び、これを聖別されるのは主ご自身である。聖別された時の中へ招かれる。それが、旧約の礼拝であり、キリスト教礼拝においても「時」の理解は、基本的に受け継がれている。

 

仮庵は文字どおり仮の宿であり、粗末な、急ごしらえの住まいである。8日の間、そこに住む。この粗末な住居が、荒れ野での不安な生活を思い出させてくれるのである。現代のエルサレムでも、伝統的なユダヤ教に生きる人々は、仮庵の祭りを守っているようである。石造りの普段の家を出て、急ごしらえの仮の住まい(バラック建築)に移り住む。そうすることによって、人間の本来の姿を思い起こすのであろう。荒れ野で味わった、心細く不安な一夜が、長い歴史を超えてよみがえるのかも知れない。人は、どんなにか弱い存在であることをかみ締める。強そうにしていても、もともと人は、吹きさらしの中で生きる。自分を守ってくれるものは何もない。神の助けなしには、人生は放浪であり漂流である。

 

今、エルサレム神殿の基礎を据えようとしているイスラエルの民は、もう一度、荒れ野の40年を深く心に刻むべきである。不安と試練の中でさ迷った日々に、イスラエルの神、主が、イスラエルを発見し、救いの道を歩ませてくださった。神の守りが約束され、神が共に歩んでくださることが、どれほど掛け替えのない恵みであるかを、仮庵での礼拝の日々は、人々の心に刻んでくれたであろう。もちろん、仮庵での礼拝がイスラエルの人々のこころに刻むのは、出エジプトの救いだけではない。バビロン捕囚で経験した悲痛な試練を、ふり返っているのである。「苦汁と欠乏の中で、貧しくさすらったときのことを、決して忘れず、覚えているからこそ、わたしの魂は沈み込んでいても、再び心を励まし、なお待ち望む」(哀歌319~21節)。

 

 

 

4.人生の「始まり」と「目標」としての礼拝

 

礼拝の始まりは、神と共に生きる将来への記念すべき一歩である。その意味で、礼拝は私たちの人生に、良い始まりを造る。人生の出発、そして新たな出発を用意してくれる。どこを出発点として生きるか。この問は、言うまでもなくきわめて重要である。人生の出発点を、はっきり捉とら えることができれば、今という時がどれほど不安と焦燥しょうそう に満ちていても、行き詰まりと不透明さに臆おく していても、必ずそこから立ち上がって、将来へと歩みだすことができる。始まりを定めてくださるのが主であれば、主は私たちの道の途上にも必ず共にいます。イスラエルの民が、捕囚から戻って、まず礼拝に取り組んだこと。そしてその礼拝が、荒れ野と捕囚という二つの試練を、はっきりこころに刻みつける「仮庵祭」の礼拝であったことは、人間の計画をはるかに超えた、神の摂理と導きだと言わねばならない。礼拝が人生の力であることを、試練の時にこそ深く体験できるのである。

 

神殿の基礎が据えられたとき、「主は恵み深く、イスラエルに対する慈しみはとこしえに」という賛美が、叫びとなって唱和されたという(11節。特に詩篇136篇を参照)。しかし、その叫びは人々の泣く声と喜びが入り混じった、不思議な味わいの賛美でもあった。私たちが献げる礼拝にも、喜びと悲しみが混じりあうことがある。途上にある礼拝生活では、喜びと悲嘆ひたん、感謝とつぶやきが、混じりあうことが避けられない。地上の礼拝は、そのようにしてこそ、キリストにある真実な「終わり」を指し示すことができるのではないだろうか。そして、終わりのときに私たちを待っている礼拝には、もはや悲嘆もなければつぶやきもない。「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(ヨハネ黙示録2134節)。礼拝が、人生の完成(人間性の完成)そのものであることが、ここに約束されている。日々の、そして週ごとの礼拝は、つねにこの終末と完成への道標である。

   

 

 

 

 

                「列王記における礼拝 ― ソロモンによる神殿建築」       2019年3月の学び資料     担当 小野静雄

 

                               列王記上6114節、2338 

                       

 

1.エルサレム神殿の建築、その背景

 

ダビデが王位についた時から、すでにエルサレムに神殿を建築することは、この王朝の重要な課題であった。ダビデを生んだユダ族は小さな部族である。ダビデが王位についた当初は、領地も狭く、部族間にも種々の権力争いが絶えず、王位は必ずしも安定しなかった。ダビデが、イスラエルの諸部族を統一したとき、その最大の課題は、イスラエルの礼拝を一つに統一することであった。礼拝の一致と集中によって、イスラエルの宗教上の安定をはかることを願ったのである。そうすることによって、ともすれば分離しがちなイスラエルの精神的な一致を求めたということができる。しかし、ダビデ自身は、神殿建築について主の同意と許可を得ることができなかった。

 

その理由はいくつか挙げられている。①ダビデの「家」を堅くすえるのが主の仕事(約束)であり、主ご自身は決して自分の「家」を求めたことはない(サムエル下7711節)。②ダビデがあまりに多くの血を流した人であるため、神殿建築の資格をもたない。「あなたは多くの血を流し、大きな戦争を繰り返した。わたしの前で多くの血を大地に流したからには、あなたがわたしの名のために神殿を築くことは許されない」(歴代誌上228節)。この二つの点が、旧約聖書が公にあげている理由である。③ダビデの子ソロモン自身の言葉として伝えられる、第3の理由はこう述べている。「父ダビデは、主が周囲の敵を彼の足の下に置かれるまで戦いに明け暮れ、その神なる主の御名のために神殿を建てることができませんでした」(列王記上517節)。

 

こうした事情のため、いわばダビデ王朝による神殿建築はふさわしい時期を得なかった。いまソロモンの治世となり、ようやく種々の事情が整ったことを、列王記上は記している。ソロモン王は、神殿だけでなく多くの大規模建築に取り組んだ人である。宮殿建築のために13年の歳月を費やしている。またエルサレムの防備のために、周辺の重要な町に砦とりで を造り、妻として迎えたエジプト王(ファラオ)の娘のためにも広壮な住居を造った。このような大規模建築が可能となったのは、ソロモンの政治、外交、軍事、交易の成果である。特に周囲の国々との貿易は、王家に巨大な富をもたらした。しかし、他方でこうした大規模な建築は、多くの費用と民の労役を必要としたため、王国の経済的な行き詰まりは、すでにソロモンの時代に現実のものとなった。

 

2.ソロモンによる神殿建築の様子

 

列王記69章には、ソロモンによる神殿建築の様子が、かなり細かく報告されている。エルサレムに建設された、そのほかの公共の建築や王の宮殿については、ほとんど具体的な記録が残されていない。神殿については、例外的に詳しい記述が見られる。列王記という書物が、エルサレム神殿の建築を非常に重視しているためである。列王記は、エルサレム神殿とそこでささげられる礼拝に、重大な関心を払っている。しかし、ここで用いられている用語や、神殿の細部が実際にどのようであったかは、あまりはっきりしないと言われる。神殿の素材として「石」が重視されている。「神殿の建築は、石切り場でよく準備された石を用いて行われた」(67節)のである。神殿建築の現場では、建築にともなう騒音がまったくなかったことが強調されている。神がその昔、イスラエルの民に命じた掟おきて では、主の祭壇を造る場合、「切り石」を用いてはならないと命じられていた(出エジプト記2025節)。列王記は、この古い命令に留意しつつ、新しい解釈を加えているのである。つまり、石を切ることは構わないが、工事現場に騒音を持ち込むべきでないという理解である。

 

神殿の建築にあたって、ティルスの王ヒラムに資材の援助を求めている(517節以下)。ヒラムは資材を調達しただけでなく、神殿の備品の製作にも大きな役割を果たしている。ヒラムの父はティルス人だが母はナフタリ族の出身という(714節)。つまり、神殿建築の素材や技術面では、イスラエル以外の文化や伝統が用いられた。周辺諸国の技術や文化とのつながりが用いられ、しかもそれが神の栄光を汚さないことを注意深く説明しているのである。神殿は、3つの主な部分からなっている。第1は神殿の玄関にあたる部分。その左右には2本の青銅の柱が据す えられた(715節)。第2は、建物前面の大広間にあたる部分。ここに「海」と呼ばれる大きな水盤などが置かれた。

 

3の部分が、神殿の心臓部にあたる「内陣」つまり「至聖所しせいじょ」である(616節)。この至聖所の最も重要な施設が、2体の「ケルビム」である(623節)。ケルビムの翼が、至聖所の全体を覆う。そしてその翼の下に、契約の箱が安置され、神殿建築は完了する(81節以下)。「ケルビムは箱のある場所の上に翼を広げ、その箱と担ぎ棒かつぎぼう の上を覆うかたちになった」(同、7節)。神殿建築の完成は、何よりも主の臨在のしるしが、神殿を満たしたことに現れている。「祭司たちが聖所から出ると、雲が主の神殿に満ちた。その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が主に神殿に満ちたからである」(同、1011節)。

 

3.       神殿建築の意味 ― 主の臨在の約束と希望

 

エルサレム神殿の礼拝。それを支えるのは、建築物の大きさや美しさではない。主の栄光は、ソロモンの壮麗な神殿に現れたが、出エジプト記40章の質素な幕屋完成のときにも。同様に現れたのである。イスラエルの礼拝にとって、神殿の完成はたしかにきわめて重要な意味をもっている。列王記という書物は、神殿建築という事業を、イスラエルの歴史の頂点をなすものとして描いている。つまり、この建築事業が、「出エジプト」という重大な歴史を起点として位置づけられる(61節)。その恵みを示すように、2本の青銅の柱は、それぞれ「ヤキン(堅固)」「ボアズ(強さ)」と名づけられている(721節)。つまり、この神殿を通して神はイスラエルに、安らぎと確かさを与えてくださると信じたのである。

 

しかし、そのような安心や安全は、神殿という建築物が自動的に約束するものではない。この神殿を通して、まことの礼拝と祈り、御言葉に従う誠実な信仰生活こそが、神殿をまことの神の宮とする。列王記は、神殿建築を歴史の頂点として描いている。だが同時に、この神殿建築を頂点として、イスラエルの歴史が明らかに下降線を描き始めることも、列王記は見逃していない。神殿建築を成し遂げたのち、ソロモンは富み栄えるが、すぐにも神への信頼を捨て、おびただしい外国人女性を愛し、それらの女性が信心する神々にも心を寄せていった(11章)。つまり、神の臨在という約束は、決して機械的ではない。立派な神殿が建築されたからといって、神の臨在が保証されるわけではない。

 

ソロモン自身、献堂式の礼拝で祈ったはずである。「あなたの民イスラエルが、あなたに罪を犯したために敵に打ち負かされたとき、あなたに立ち帰って御名をたたえ、この神殿で祈り、憐れみを乞うなら、あなたは天にいまして耳を傾け、あなたの民イスラエルの罪を赦し、先祖たちにお与えになった地に彼らを帰らせてください」(83334節)。神の愛と、民の真実な祈りは、互いに関連し合っている。神の愛があって、民の真実が欠けることはあってはならない。その意味で、イスラエルにおける礼拝の神学は、立派な神殿の存在によりかかった結果、真実の悔い改めから離れてしまった。

 

列王記下の最後の箇所は、イスラエルの歴史の末期に民の多くが、バビロン王を恐れてエジプトに逃れたと記している(列王記下2526節)。つまり、列王記の神殿理解は、決してこれを妄信する精神ではない。エレミヤのような神殿批判の預言者にも通じる、霊的に正しい神殿理解を示している。人の手で造った神殿には、決して永続的な価値はない。殉教者ステファノが説教で語ったとおりである。「いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません」(使徒言行録748節)。じじつ、まことの神殿は、主イエス・キリストの十字架と復活によって、天に完成された。だから、ヨハネ黙示録が描くとおり、新しいエルサレムには、もはや神殿は存在しない。主と小羊キリストが都の神殿であり、都の門は一日中決して閉ざされていない。「そこには夜がないからである」(212225節)。ハレルヤ!

 

 

  

 

 

 

 

        「サムエル記下における礼拝 ― 神の臨在をめぐる歴史、その苦悩と喜び

 

             サムエル記下6123節          20192月 瑞浪伝道所の学び資料 担当/小野静雄

 

 

1.契約と、神の箱の歴史

 

神がイスラエルの民と結ばれた契約は、神とイスラエルの間の強い絆を約束している。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記2023節)。神は、イスラエルを御自分の民として選び、その選びに基づいてエジプトの苦境から彼らを導き出された。十戒の第1の戒めは、①この「主」以外のどのような神にも心を渡さない、というイスラエルからの誓約であり、②他方で、主以外のどんな神への隷属からも完全に自由であるという、主からの愛の招きである。それは戒めであると同時に、この上ない恵みの福音である。この契約にとって、さらに重要なことは、契約の絆を確かなものにするため、主がイスラエルの内に、イスラエルと共に住まわれることである。神が、イスラエルの内に御自分の住まいを定めること。それを「主の臨在」とよぶ。「わたし自ら同行し、あなたに安息を与えよう」(出エジプト記3314節)

 

神が民と共に歩み、共に進まれる。この臨在の恵みを、具体的に約束するために、神は宗教上の施設を設けることを許された。それが幕屋の建設であり、その幕屋のなかに安置されるべき「契約の箱(神の箱)」である。契約の箱の中には、神がモーセを通して与えた、律法の石の板が納められた。イスラエルの民が、荒れ野を旅したときは、レビ族の者が箱をかついだ。神の箱は、イスラエルの隊列の中央にあることもあれば、隊列の先頭に進むこともあった。神の箱に対するイスラエルの信頼は、さまざまな出来事を通して次第に篤(あつ)くなった。イスラエルがエリコの町を攻略したときには、神の箱と共にエリコを回り、角笛と鬨とき) の声だけで堅固な城壁はくずれ落ちた。約束の地では、神の箱は「シロ」の聖所に置かれたが、祭司エリとその家が神の信任を失い、神の箱はペリシテ人に奪われてしまう。神の箱を失ったことは、「栄光はイスラエルを去った」という厳しい現実を、イスラエルの民に突きつけた(サムエル記上42122節)

 

2.神の箱をめぐるイスラエルの試練

 

神の箱がシロから奪われた不幸な事件は、イスラエルの民にとって、「神の臨在」という信仰がするどく試される経験でもあった。神の臨在は、けっして自動的・機械的な出来事ではない。神の言葉に対する、信頼と服従があってこそ、神の臨在の約束も確かなものとなる。神の臨在の確かさが、イスラエルの民の間で深い信頼を受けている間は、イスラエルは「王制」という人為的な手段なしに、神の共同体としてのまとまりを保つことができた。しかし、神の箱がペリシテ人に奪われる事件ののち、神の箱の場所は非常に不安定になった。神の箱は、運ばれる先々でペリシテ人に災いをもたらす(サムエル記上5章)。神の箱は、別の場所に移されるたびに、ペリシテの人々に不安と苦しみをもたらした。その事情は、神の箱がイスラエルの領土に戻された場合も同様であった。主の箱をのぞきこんだ人々は、主の手によって打たれ、住民は神の怒りを恐れて、別の町に箱の引取りを願う始末であった(同、61921節)

 

預言者サムエルが、成長し、預言者としての働きを始めたのは、このような時代である。つまり、神の臨在というイスラエルの信仰の基本が、はげしくゆらぎ、厳しく試される時代である。神の箱によりたのむ礼拝生活が、不安定なものとなり、そのことがイスラエルの信仰を「預言者の時代」へと推し進めることになったと考えられる。同時に、神の臨在への信頼の後退は、イスラエルの人々の中に「王国待望」の願いを強める結果にもつながった。王制に対するサムエルの警告にもかかわらず、民は王を求めてサムエルに迫った。「我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです」(同、81920節)。ここでは、神の箱が果たしてきた役割が、王に移されている。イスラエルは、神の臨在を中心とした民から、他の民族と同じように、権力・武力をもつ王によって支配される普通の民族になってしまうのだろうか。

 

3.ダビデ、神の箱をエルサレムに運び上げる

 

初代サウル王と、2代ダビデ王との熾烈しれつ な戦いが行われている間、神の箱は人々の心から忘れられていたように見える。しかし、一連の激しい戦争を終えたのち、ダビデは、神の箱をエルサレムに運び上げるため最大の努力を惜しまなかった。ペリシテ人の地から戻されて以来、神の箱は、歴史の片隅に置き忘れられた状態であった(サムエル上71節)。ダビデは、サウル王との激しい軍事的な衝突、さらにはペリシテ人との戦争にも勝利した。わけても「エルサレム」を「ダビデの町」として手に入れたことは、その軍事的な勝利をほぼ完全なものにすることとなった。しかし、ダビデは軍事と政治だけでは、イスラエルを統治できないことを知っていた。むしろ、ダビデ自身の信仰が、軍隊と権力機構だけの統治に満足も平安も得られなかったと言うべきであろう。都を築き、兵力と経済力を蓄えても、神の臨在がそこに約束されていなければ、エルサレムはただ地上の過ぎ行く都にすぎない。

 

神の箱をエルサレムに迎える。それが、ダビデの成功をほんとうの意味で確かなものにする。神の箱のあるところに、自分も留まりたい。それがダビデの深い祈りであった。後に、息子アブサロムが父に反旗をひるがえしたとき、ダビデはかろうじてエルサレムから脱出した(下、151314節)。そのとき、側近の人々は、神の箱を王とともにエルサレムから運び出そうとした。しかしダビデはそれを止めて言った。「神の箱は都に戻しなさい。わたしが主の御心に適(かな)うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所とを見せてくださるだろう。主がわたしを愛さないと言われるときは、どうかその良いと思われることをわたしに対してなさるように」(同、152526節)

 

神の箱を、自分の都合であちらこちらに移動することを、ダビデは拒んだ。そこには、「エルサレム」と「神の箱」のかたい結びつきへの確信があっただろう。そして、何よりも、神がすべてのことを支配される、という切実な信頼にすべてを賭(か)けているのである。エルサレムから逃げのびる途中、はだしでオリーブ山の坂道を泣きながら上るダビデを聖書は描いている(同、30節)。これほど惨めな涙は、人生のなかで滅多にないことである。主イエスが、十字架にかけられる前の夜、この坂道を上り、ゲッセマネという園まで行かれたことを、私たちは心に留めよう。惨めで、希望を失うような涙の中で、ダビデに残された希望は、いつの日か再び神の箱とその住む所(幕屋)を見せていただくことであった。礼拝者ダビデの魂の告白がここにある。神の箱をエルサレムに迎えるとき、「主の御前でダビデは力のかぎり踊った」(同、614節)。妻ミカルは、このダビデの姿を、軽率で、はしたないと蔑さげす)んだが、ダビデは意に介さなかった。

 

4.イスラエルの礼拝にとって「神の箱」とは何か?

 

神の箱と、それが安置された幕屋は、神の臨在の約束をたしかにするための、重要な施設であった。しかし、このように特定の器、特定の施設を、神の臨在の場所としてもつことは、「世界と宇宙の創造者である神の臨在(遍在)」という聖書の信仰を、さまたげるものではないだろうか。神の箱が、臨在のしるしとされるとき、神の臨在が、一つの場所に制約されることにならないだろうか。旧約聖書の臨在の信仰は、このような懸念や疑いを無用のこことして退けている。神の箱が、幕屋や神殿に置かれたことは、神の自由と主権、いずこにもいます神の臨在の普遍性という信仰を、否定するようなものではない。むしろ、旧約聖書のすべての記録と信仰は、主なる神が全地の主であり、すべての被造物のまことのかしらであることを、くり返し明らかにしている。詩編の多くは、エルサレム神殿の礼拝と共に誕生したが、そこでは、全地にひろがる主の権威が歌われ、同時に、礼拝する魂のどのような深みへも、神の臨在が届いていることが、驚きと賛美をこめて告白されている。

 

歴史の激流のなかで、神の臨在のしるしとしての「神の箱」も、数々の受難を経験した。それがサムエル記下の証言である。神の臨在を、どのように経験することができるか。それは、旧約のイスラエルにとって、重大な問いかけであった。神の臨在なしに、イスラエルの民はない。臨在を通して、神はイスラエルの神としてあかしされたのである。そして、この主題は、新約における臨在、つまりイエス・キリストの受肉という全く新たな展開へとつながっている。クリスマスに、神の独り子が、肉をとって私たちの間に住まわれた。それは神の箱を用いて示された「臨在信仰」を完成するものである。しかし、キリストの受肉は、神の箱をはるかに超える。受肉されたキリストは、神の臨在をしめすだけでなく、神の生きた愛それ自身である。自由な主権者である方が、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた。死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ福音書114節)。人間と世界の中に、自ら来られて、私たちの間に幕屋を張った神。そこに神の臨在のまことの完成がある。新約の礼拝は、十字架と復活を経て栄光の内に昇天されたキリストの臨在を祝う祝祭である。

 

 

 

 

           「サムエル記上における礼拝 ― 祈りまた聴く修練         201812月の学び 瑞浪伝道所

 

                      サムエル記上11220節、319節                   小野静雄

 

1.       悩みつつ祈る礼拝者

 

サムエル記は、イスラエルの歴史が王国の誕生にむかって進む時代を描いている。この王国誕生に大きな役割を果たしたのが、預言者サムエルである。礼拝という観点からは、まだエルサレムの神殿礼拝は始まっていない。サムエル記では、イスラエルの礼拝地は「シロ」にある。サムエルの両親、エルカナとハンナも、毎年のように自分の町からシロに上のぼ り、そこで神を礼拝する習慣であった(13節)。神の契約の箱も当時はシロにあったが、ペリシテ軍との戦闘によってそれが一時的に奪われるような事件も生じる(4章)。つまり、イスラエルの礼拝生活は、まだ十分な落ち着きを得ておらず、人々を取り巻く礼拝環境は不安定なままである。しかし、そうした不安定な礼拝環境にもかかわらず、真実に礼拝し、神に祈り求める人々が絶えていたわけではない。

 

サムエルは、その母親から熱心で果敢な信仰を受け継いだ人と考えることができる。ここでは、サムエルの母ハンナ、そしてサムエル自身が、礼拝する人としてどのように描かれているかを学ぶことにする。サムエルは、その母親から長らく誕生を待ち望まれた子である。夫エルカナには二人の妻があり、ペニナという妻にはすでに幾人かの息子、娘がいた。この家族がそろって礼拝するとき、夫はペニナとその子供たちには、それぞれが献げる分のいけにえを与えたが、ハンナは一人分しか受け取ることができなかった。礼拝のしきたりとして、それは当然のことであったが、ハンナにとっては礼拝それ自身が一つの苦しみであり試練であった。二人の妻は、それぞれ相手にとって「敵」同士である。一夫多妻の家族の中で、女性たちが「出産による競争」に明け暮れなければならない悲劇を、ハンナも味わっているのである。

 

礼拝自身が試練である。主の家で行われる食事も、ハンナは喉のど を通らず泣くばかりであったという。夫エルカナは、ふさぎこむハンナを慰め、「このわたしは、あなたにとって10人の息子にもまさるではないか」と励ます。エルカナは、妻ハンナを愛していた。しかし、ハンナの嘆きは、こうした夫の暖かな「いたわり」によっても癒されず、こころはふさがったままである。夫エルカナは、暖かいこころをもつ善良な人である。しかし、アブラハム・カイパーが述べるとおり、エルカナは妻ハンナの信仰や精神生活に、生き生きとした影響を及ぼしているとはいえない。エルカナは、善良な夫、誠実な礼拝者である。しかし、ハンナのいだく深い嘆きと悩みを、祈りによって共にになうほどの「熱意ある信仰」の持ち主ではなかった(カイパー『聖書の女性』旧約篇 140ページ)。

 

ついにある年、シロでの家族そろっての礼拝が終わろうとするとき、ハンナは神殿に留まってなお祈り続けた。「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた」(110節)。ハンナの信仰と祈りは、体裁ていさい を構わず、心の苦しみと嘆きを、ありのまま神にぶつける真剣味を帯びていた。これほど深く強い感情をこめた祈りと礼拝の例は、詩編の礼拝者を除いてほとんど例がない。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら・・・」(11 節)。ハンナの祈りには、神が自分の苦しみと悩みを決して忘れることがないように、あたかも神の耳に自分の願いをこすりつけるような、懸命さと熱意にあふれている。

 

ハンナが、神への礼拝に持ち込んだのは、けっして単なる激情ではない。人生の苦しみを、神が決して忘れておられない、という深い信頼が、この人のあつかましいほどの祈りを支えている。何よりも、自分の深い苦悩を言い表す「言葉」を、この女性がもっていることに注目しなければならない。いわば心を神の前に立てあげるために、この女性が明確な言葉を与えられている。「わたしは深い悩みを持った女です」、「訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです」(16節)。このような苦しみの中から、この人は「主の御前に心からの願いを注ぎだしておりました」という(15 節)。

 

こうしてみると、神への礼拝が、家庭内で弱い立場を押し付けられている女性にも、「自立した言葉」を与えていることがわかる。自分の苦しみを、自分の言葉で表現することは、今日、私たちが考えるほど容易なことではない。古代社会の中で、そうした自立した言葉を女性がもつことは、きわめて困難なことであったに違いない。聖書の女性たちは、その点でさまざまな例外を私たちに示している。それは、神への祈りと礼拝が、真実の言葉を学ばせるためにどれほど大きな意味(人間教育という意味)をもっているかを、私たちに教えているのである。礼拝は、人の魂を神の言葉によって耕し、こうして耕された魂に、深く明るく真実な「魂の言葉」を与えてくれる。ハンナがささげる祈りは、1000年の時をへだてて、主の母「マリアの賛歌」へと歌い継がれるのである。

 

 

 

2.どうぞお話しください。僕は聞いております。

 

母によってその生涯を神に献げられたサムエル。いわばこの母親は、子供をさずかる幸福を自分の中に取り込むことをせず、子の人生と一つになって一切を神に献げる決意をしたのである。サムエルは、幼い頃から祭司エリの訓練を受けて育った。当時のイスラエルが、その礼拝で経験したのは、「神の言葉の欠如」という重大な問題である。祭司エリは、自分の子供たちが神をないがしろにし、祭司職を汚していることを知りながら、子の教育について全く無能であった(22225節)。神は決して、御自分の言葉を惜しんでおられるのではない。神の言葉が、語られ聞かれるために、霊的な訓練をうけた人が途絶えているのである。サムエルが、シロの祭壇で訓練を受けたのは、そのような御言葉への渇きが、イスラエルにとって耐え難くなっている時代であった。

 

神の箱が安置されている神殿で、神はサムエルに最初の言葉をかけられた。神が人を呼ぶ。それは実際に、どのようにして起こり、どのような体験をもたらすのだろうか。神からの直接の啓示に接することのない私たちには、ほとんど理解を絶する体験であることは間違いない。主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、祭司エリが自分を呼んだと思い、エリのもとに走っていった。それはサムエルの思い違いである。「サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった」(37節)。主が自分を呼んでおられる。こころを聡さと くして、主の呼ばれる声を聞き分けることが、サムエルに求められた訓練である。主の声を、直接、耳にすることのない私たちには、聖書を通して語られるイエス・キリストの言葉を、自分に語られる主の呼び声として聴き取る訓練が求められている。「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます」(テモテⅡ、315節)。

 

まだ主を知らず、どのように答えてよいか分からないサムエルに、主は近づいてくださる。主を知らぬサムエルを、主は知ってくださる。植村正久は、キリスト教信仰を「神の知遇ちぐう を得る」ことと教えた。神は、そのお選びになった民を知ってくださる。家族の中で、ひどい苦しみを受けているハンナの嘆きと悩みを、主がこころにとめてくださったように、私たちも神の知遇を得る。この恵みこそ、礼拝への扉である。私たちが神を知っているから、礼拝ができるのではない。「主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた」(10節)。

 

主が来てくださる。そして、私たちの前にも立ってくださる。そこで始まるのが、神との出会い、神との交わりである。私たちの場所に、主が来てくださる。そのような驚くべきことが、クリスマスに実現し、イースター、ペンテコステにも実現した。この恵みにこたえて、私たちも、サムエルと共に「どうぞお話しください。僕は聞いております」と答えるべきである。神が、サムエルの人生に対して、主導権をもたれる。神は、私たちの信仰と人生においても、主導権をもつことを願っておられる。

 

神の主権を仰ぎ、これに従う。礼拝において生じる最大の恵みは、私たちが自分の主権を神に譲り渡し、従順に神に従うことである。「しもべは聴く」。そこに求められる信仰は、自分を捨てて従う「悔い改め」である(『神・聲・聴』の額を書いて下さった、中会のある長老の言葉)。「お言葉どおり、この身に成りますように」。マリアがそう祈り、疑いと迷いを捨て、すべてを神に委ねたとき、神の言葉は現実のものとなった。母ハンナの祈り同様、子サムエルの従順も、主の母マリアに引き継がれているのである。

 

「士師記の礼拝 ― 混乱の時代の断片的な礼拝」       2018107日 瑞浪伝道所 10月学習資料

 

    ヨシュア記2623節                   小野静雄代理宣教教師     

 

1.礼拝と社会

 

士師記の時代には、礼拝についてまとまりのある情報・記述がほとんど残されていない。ここで見ることができるのは、礼拝をめぐる断片的な言葉と物語である。士師時代のイスラエルは、政治も社会も極度に混乱していた。士師記2125節に「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」とある。正しい法の規準がなく、社会全体が秩序を失っている様子がうかがえる。このような混乱した時代には、神への礼拝そのものも、正しく行われるための保証を失うのではないか。

 

パウロはテモテに勧めている。「願いと祈りと執り成しと感謝をすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです」(Ⅰテモテ212節)。信仰が平和に営まれるには、社会の平和が保たれ穏やかな秩序が確保されていることが重要である。社会の混乱は、ほとんど例外なく礼拝の混乱をもたらす。礼拝は、社会の平和と切り離せない関係をもつ。それは、教会の長い歴史のなかで疑いない事実である。士師時代のイスラエルの礼拝は、その点で残念ながら見るべき情報を私たちに残していない。断片的な記録から、礼拝についての部分的な様子を知ることで満足しなければならない。

 

 

 

2.契約から遠ざかるイスラエル

 

士師時代の礼拝にとって、最も不幸なのは、多くのイスラエルの民が、先住のカナン人が拝む「バアル」や「アシュトレト」礼拝に引きずられたことである。ヨシュアの指導のもとで、シケムでの契約に参加したイスラエルは、「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません」と決意し、「わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です」と告白した(ヨシュア記241618節)。しかしヨシュアの死後、ヨシュアが心配したことがすぐに始まった。

 

ヨシュア時代に、主の大いなる御業を見た世代が生きている間は、イスラエルは迷わず主に仕えた(27節)。しかし、「その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った」(同10節)。その結果「イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった」(11節)。こうして、イスラエルはカナン人との戦いに敗れ、ほしいままに略奪される状態が続いたのである。このような「苦境」(15節)から救うため、主は士師たちを立ててイスラエルを救おうとされたが、イスラエルの民は士師の声に耳を傾けることを拒んだのである。それでも主は、イスラエルを哀れに思い、士師たちを送り続けたが、士師が死ぬと前より一層イスラエルの霊的な生活は混乱し、「他の神々」に心を傾けていった(19節)。

 

 

 

3.デボラの歌 ― 賛美こそ力

 

女預言者デボラは、女性としてただ一人の士師である。当時イスラエルは、カナンの王ヤビンによって、20年の間、抑圧されていた。デボラは、イスラエルの人々の裁き(裁定)を行うことによって、預言者としての資格を証明した。しかし、士師は単に預言者であるだけにと留まらず、軍事的にも力を示すことが求められる。デボラの活躍によって、イスラエルは40年にわたって「平穏」を得た(531節)。

 

礼拝という点で、デボラが私たちに残しているのは、神への力に満ちた賛美である。5章の「デボラの歌」は、この女性が、神によって得た勝利をことごとく神御自身の栄光に帰していたことを示している。「もろもろの王よ、聞け、君主らよ、耳を傾けよ。わたしは主に向かって歌う。イスラエルの神、主に向かってわたしは賛美の歌を歌う」(3節)。「地は震え、天もまた滴したた らせた。雲が水を滴らせた。山々は、シナイにいます神、主の御前に、イスラエルの神、主の御前に溶け去った」(4節)。

 

デボラの歌は、神が、そして神こそがまことの勝利者であることを告白している。それゆえに、デボラの歌は力に満ちている。神へのまったき信頼が、苦難のときの逃れ場であり、試練に打ち勝つ秘訣である。そのように神の恵みと真実を体験するとき、イスラエルは真心から神を歌い、賛美による礼拝をささげる。歌うことは、自分という小さな囲いから出てゆくことであり、神の大きな世界に自分を委ねることである。人生の「裁量権」を神に差し出すのである(マタイ1624節「十字架を背負って」)。デボラの歌は、イスラエルと教会の礼拝にとって、賛美が決定的な位置をもつことを私たちに告げている。

 

 

 

4.エフタとその娘 ― 涙の礼拝

 

エフタについては、何よりもその不幸な娘に目を留めたい(11章)。エフタは誕生からして不遇な人生を歩み始めた(1節)。エフタの回りには「ならず者」が集まり、この人は無頼ぶらい の集団の頭領となったのである。しかし、神はエフタをとらえ、彼はイスラエルを保護する士師としての働きに召される。アンモン人との戦いがエフタの使命であった。戦いに出るとき、エフタは不穏な誓いを立てる。アンモン人に勝利して帰るとき、自分の家の戸口から最初に出迎える者を、「焼き尽くす献げ物」として主に献げるというのである。創世記22章では、アブラハムがその子イサクを「焼き尽くす献げ物として」献げるよう、神の命令を受けている。しかし、イサク奉献とエフタの誓いを同じものとみなすことはできない。イサク奉献は、アブラハムと神との契約の真実にかかわる試練であった。エフタの誓いには、異教的な空気さえ漂ただよ っている。

 

エフタがアンモン人に勝利して家に帰ると、エフタの一人娘が「鼓つづみ」と「踊り」で父親を出迎えた。驚き悲しむエフタに娘は告げる。「あなたは主の御前で口を開かれました。どうか、わたしを、その口でおっしゃったとおりにしてください」(36節)。娘は、おとめのままで死ぬことを嘆くため、2ヶ月の間、友人たちと山にこもりたいと父に願う。娘の涙は、人の前で流す涙ではない。隠れたところで流される涙を、神だけが本当の意味で知っていてくださる。

 

無知で粗野な父親の、不用意な誓いの犠牲になって、この不幸な娘は、悲しみを共にしてくれる友達と山にこもる。しかし、娘の涙の最も深い悲しみは、神によってだけ癒される。「エフタの娘のひとり泣きは、喜びも愛も知らず、他の者に定められた死から自分を救うことができないという絶対的な無力感の中で、泣くために自分の最も深いところに引きこもる全ての人々のひとり泣きである。それはまるで神が、泣くために神自身の『隠れた場所』に引きこもる、その場所に近いところに行くために、心の最も深いところに足を踏み入れるかのようだ」(「誰もいないところで泣く」小野文訳)。神が人の最も奥深い涙を受け入れ、癒し、回復へと導いてくださる。そこに、人間の経験できる最もひそやかな礼拝の恵みが隠されている。

 

 

 

5.サムソン ― 無力にされた勇士の祈り

 

サムソンの勇猛は、神の霊によると同時に、彼自身の人格の「破れ」を伴ってもいる。その意味で、勇士の時代のサムソンの評価は両義的である。弱くされ、悲惨な境遇に落ちて後はじめて、サムソンの生涯は私たちに強く深く訴えかける。両眼をえぐられ、盲目になり、奴隷のように石臼につながれたサムソン。この人が、最後に命をかけて願う祈りが、こころを打つ。「わたしの神なる主よ。わたしを思い起こしてください」(1628節)。サムソンが、神に向かって真実に語りかけたのはここだけである。最後の祈りは、自分の命と引き換えにペリシテ人に報復したい、という決して穏やかではない祈りである。自殺をほのめかしているのである。しかし、士師時代という、イスラエルにとって最大の危機の時代に、神はこのようないささか不穏な願いにも耳を傾けられた。異教的な響きさえ漂うエフタの誓いに、主がお応えになったように。

 

「わたしを思い起こしてください」。これは、祈りと礼拝のもっとも重要な部分である。神が、とるに足りぬ私たちを思い起こしてくださる。それが救いであり、癒しであり、平安であり、祝福である。神が私たちを思い起こしてくださるとき、神は、あらゆる障害を乗りこえて最も近くにおられる。主イエスと共に十字架につけられた犯罪人の一人が「わたしを思い出してください」と祈ったとき、主は即座に約束された。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ2343節)。サムソンは、敬虔な人として私たちの記憶に深く留まる人ではない。しかし、最後の祈りを聞き届けることによって、神はこの人を信仰の人と認めてくださった。「もしサムソン、エフタ・・・たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう」(ヘブライ1132節)。

 

 

 

 

           「ヨシュア記における礼拝 ― 仕えるべき神を選びなさい」    201892日 瑞浪伝道所 学びの資料

 

              ヨシュア記24128節                     代理宣教教師 小野静雄

 

 

 

1.それぞれが自分の「祭壇」をもつ生活を

 

ヨシュア記は、荒れ野の旅路を終えたイスラエルの民が、約束の地にはいり、12の部族がそれぞれの定住地を得るまでの物語である。定住地とはいえ、12部族が入植した土地は、大部分が先住のカナン人によって治められており、イスラエルの人々は山間の地に住み、貧しい生活を余儀なくされた。そうした困難が、約束の地でなお続くことは、地上の信仰生活にはげむ私たちにとっても、種々の示唆しさ を与える。ヨシュア記がしるす12部族の土地分割は、実現までにまだ長い年月を必要とする、地図上の「線引き」のようなものと考えてよい。地上を旅する民にとって、「約束」と「完成」の距離を学ぶことは重要な訓練である。

 

こうして、12部族定住のための共同の労苦を描くのがヨシュア記である。こうした共同の労苦がひとまず終わったとき、ヨシュアは「ルベン人、ガド人、マナセの半部族」を呼び寄せて、彼らが定住地として選んだ「ヨルダン川の東」に戻るよう命じた(2215節)。ヨルダンの東を定住地として選んだ、これらの部族にも、ヨルダン西部の土地を得るための戦いに参加するよう、ヨシュアは命じていたのである。こうして、ヨルダン川の東に去った部族が、彼ら自身の「祭壇」を築いたという情報は、イスラエルの他の部族の人々を驚かせた。ヨシュアの礼拝理解は、申命記の理解をそのまま受け継ぎ、神への礼拝は、一つの場所、一つの祭壇に集中すべきである、というものであった。この点からみると、ヨルダン東岸の部族の行為は、大部分のイスラエルの人々の目に不穏なうごきと思われたのである。

 

22章は、別の祭壇をつくった人々と、イスラエルの主要な部族から派遣された使者との協議の模様を描いている。ヨルダン東部の人々は、この祭壇が、イスラエルの真実の祭壇の「模型」であると説明して、ヨルダン西岸からの使者に理解を求めた。そしてこの説明が受け入れられたのである。ヨルダン東部の人々は、将来、自分たちの子孫が、イスラエルの中央聖所(後にはエルサレム)にある祭壇に近づく資格があることを、この「模型」の祭壇によって「証拠」だてることを願い、その願いは妥当なものと認められた。たとえヨルダンの東に住んでいても、イスラエルのまことの祭壇に近づく資格をもち、信仰の集いの中で「居場所」を持っていることを確信したい。それがこの祭壇の意味であった。彼らはこの祭壇を「わたしたちの間では主が神であることの証人」と名づけたのである(2234節)。

 

この報告は、普段の生活ではそれぞれの場所で散らされて生きている今日のキリスト者にも、大切な教訓を残している。それぞれが、自分の置かれた場所で、一つの祭壇を築いていることの重要性である。自分の生活の中に、すでに祭壇が与えられている。その祭壇は、イエス・キリストという偉大な祭司が、私たちの魂および全人格の中に共に住んでくださる聖別された心の「座」である。ヨルダン東岸の人々が築いた祭壇が「模型」であったのとは違い、私たちの内に聖霊が建ててくださる「神殿」であり、天上の聖所の写しである。それはまた、地上を旅する神の民が、共同で集う主の日の礼拝という「祭壇」とも深いつながりをもっている。主の日の礼拝で、自分自身の居場所を見いだすことと、日ごとの生活の中で、祈りと礼拝のための小さな祭壇を築くことは、切り離せない連続性をもっている。植村正久は「内に祭壇を有せざる霊魂の淋しさ」という言葉を残している。内なる祭壇をもつことは、人が「神の像かたち」であることの「証拠」「証明」である。

 

 

 

2.仕えるべき神を「選ぶ」こと

 

ヨシュアは、地上の生涯のさいごに、イスラエルを神との契約へと招く。ヨシュアが民を招いた「シケム」は、神がアブラムに再度の出発をうながし、召しに応えたアブラムが、見知らぬ約束の地カナンで最初に主のための祭壇を築いた場所である(創世記1267節)。つまりここは、イスラエルの信仰の歴史が始められた場所である。また後に、ヤコブがイスラエルの民の新たな霊的出発の地として選んだ場所でもある(創世記3324)。家族の信仰の再生を願ったヤコブは、家族が所持していたすべての偶像をそこに埋めたのである。「あなたたちのもとにある外国の神々を取り除け」というヨシュアの命令は、むかし父祖ヤコブがイスラエルの家に告げた命令を反復しているのである。シケムは、出発と再生の場所である。

 

シケム契約は、地上の働きを終えるヨシュアが、イスラエルの礼拝生活のために残した指針として重要な意味をもつ。何よりもここで注目されるのは、神がかつてイスラエルのためになさった数々の愛のわざ、恵みと憐れみの歴史をふり返っている点である。神の救いの行為は、イスラエル自身の徳や功績によらず、ただ神の一方的な決断である。先祖アブラハムを連れ出したのは神である(3)。エジプトからイスラエルを導き出したのも神である(6)。ヨルダンを渡らせ約束の地に導きいれたのは神の絶大な力である(8)。このような神の救いの業は、何よりもイスラエルの礼拝において、くり返し告白され賛美されてきた。詩編105106篇などに代表される歴史の回顧は、信仰告白・感謝・服従を民から引き出すための、消されてはならない記憶である。恵みを記憶することは、礼拝を豊かにする決定的な要素である。

 

聖書の朗読と説教も、神の恵みを数えること記憶することと深い関連をもっている。礼拝における説教は、決して単なる聖書の解説ではない。聖書の光に照らされて、教会とキリスト者が、どのように恵みと感謝の道を歩んできたかを、説教者は黙想する。礼拝参加者も、説教者の黙想に手引きされて、自分の生活と隣人の歩みに注がれた神の恵みの黙想へと歩み入る。その意味で、説教はかならず物語としての性格をもつ。牧師が語る、教会のさまざまな実例と体験は、いわゆる「例話」などとは何の関係もない。神の恵みの業が、私たちの信仰の日々に何をもたらしているか。それを物語りつつ、聖書の大きな物語の中へ共に入れてもらうのである。

 

シケム契約での恵みの回顧は、私たちに何を物語っているのだろうか。何よりもそれは、神がイスラエルと教会の歩みに、完全な責任を負ってくださるという約束であり宣言である。この神の決意が、イスラエルを救い教会を救う。小さな群れに神の国を約束される慈しみの神、主イエスの約束の声が、ここで明らかに聞こえてくる(ルカ1232節)。神が、私たちの歩みの全てに責任を負われるのである。あらゆる困窮と悩み、あらゆる躓つまずき きと試練。その中で、神はつねに大胆に、つねに真実に、小さな群れのために配慮し、群れの歴史を救いの歴史へと作りかえてくださる。だから、他の神々を拝むことはまことに愚かの一言に尽きる。

 

この点で、2節でのアブラハムへの言及は、特に重要である。そこでは、「ユーフラテス川の向こう」に住んでいた時代のアブラハムが、「他の神々を拝んでいた」と明確に断定している。アブラハムの霊的生活は、神々への信仰であった。このようにはっきりと語る箇所は、聖書でここだけである。正真正銘の偶像礼拝者であったアブラハム。そのような人を、神はなぜ他の人々から区別し、アブラハムをカルデアのウル、バベルの塔が立ち並ぶ空虚な場所から、連れ出してくださったのか。アブラハム自身が、偶像への嫌悪を感じていた、という想像を巡らす「偽典」もあるが、根拠のない空想である。アブラハムが、偶像の町から離れたのは、神が「先祖アブラハムを川向こうから連れ出した」からである。神の決定的な行為があった。イスラエルは、アブラハムの信仰を誇ることはできないし、キリストの教会も自分の信仰を誇ることはできない。

 

ヨシュアは、イスラエルの人々に、「仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」と迫る(2415節)。確かにイスラエルの民は、主を選ぶ決意をするであろう(18節)。しかしヨシュアは言う。「あなたたちは仕えることができないであろう」。「仕える」こと。それは心を尽くし、思いを尽くして、主なる神を愛することである。「主に心を傾ける」ことである(23節)。このような心の集中と、神のことに専念する真実は、人間の中にはない。神は「聖なる神」「熱情の神」である(19節)。この神の熱情に照らして、なお自分に真実な信仰がある、と言い切ることは人間にはできない。しかし「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカ福音書1827節)。この意味で、礼拝は人間の可能性でなく、神の真実に全面的に依存する。神の可能性とは、神の選びであり神の愛である。御国を与えようとの、神の切なる熱心。それがヨシュア記が私たちに示す礼拝の意味である。

 

 

 

 

 

 

     「申命記における礼拝 ― 信仰告白と感謝の集い                 20188月 瑞浪伝道所の学び

 

       申命記26119節                            代理宣教教師 小野静雄

 

 

 

1.選びの愛への誠実な応答としての礼拝

 

申命記は、モーセに導かれたイスラエルの民が、荒れ野の旅路を終え、いよいよ約束の地に入ろうとするとき、モーセによって語られた説教である。荒れ野の旅路は、いま終わろうとしている。曲がりくねった旅路、試練と困窮は、ひとまずここで終わるはずである。しかし、信仰の旅路は、むしろここから始まる。イスラエルの民は、歴史の〈はざま〉に立っている。主に導かれた荒れ野の旅路をふりかえり、これから始まる約束の地への最後の旅路を思いみる。過去をふりかえると、荒れ野の旅路でイスラエルがおかした、数々の罪と過ちがイスラエルの心を痛めるはずである。そして将来はどうか? 約束の地、「乳と蜜の流れる地」は、イスラエルが知らなかった豊饒ほうじょう の地である。イスラエルの信仰をとりまく環境に、決定的な変化がおとずれる。豊かさと安逸あんいつ に陥おちい る誘惑が始まる。

 

「大きな美しい町々」「貯水池」「ぶどう酒とオリーブ畑」(61011節)がイスラエルを待っている。そこでは、「神なしでも豊かに暮らせるのでは」という恐るべき誘惑が、がっしりとイスラエルの魂をつかむだろう。カナンの文化の背景には、その文化を支え生み出す「霊性」がひそんでいる。与えられる豊かさの中で、神を忘れずに生きる。それほど困難な旅路はあるまい。広々とした歩みやすい道こそ、神の民にとって大きな誘惑と試練に満ちた難路なんろ である。この厳しい道を歩むイスラエルにとって、何よりも大きな支えは、神が結んでくださった契約の恵みであり、イスラエルを選び抜かれた主の愛である。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない」。「ただあなたに対する主の愛のゆえ」である(778節)。

 

荒れ野の旅路においても、イスラエルのただ一つの守りは、神を礼拝する生活であった。これから向かうカナンの沃地よくち では、一層のこと礼拝の支えが必要である。生活の豊かさは、私たちの心に数多くの岐路をつくる。選び取るべきものが多くなるのである。多くのものを選びながら、一つの真実なものを手放さずに生きることは、なんと難しいことだろう。私たちを愛してくださる神への、一層誠実な愛を、いかに学ぶか。いかに神への愛を、生活に根ざしたものに磨くか。「ご覧ください。心を燃やし、あなたの源泉に向かってあえぎながら帰って来た。誰も私をとめないでくれ。この泉から飲み、この泉から生を得よう」(アウグスティーヌス『告白録』1210)。礼拝は、「この泉から飲み、この泉から生を得よう」という決断である。そのような堅固な決断なしに、神への愛に生き、神の言葉に生き抜く生活を形づくることはできない。その決断を、聖書は「信仰告白」と呼ぶのである。

 

 

 

2.主がお求めになる信仰告白

 

豊かな文化、作物の実り。礼拝は、そのような誘惑と試練に対して、神が巡らしてくださる「垣根」のようでもある。神の囲いに入れてもらうのである。神が巡らしてくださる囲いの中で、主の民、主の羊たちは、心をこめた信仰の告白と感謝へと招かれる。信仰を告白できることは、主が私たちに与えてくださる特別な贈り物である。申命記は、「あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所に行きなさい」と命じる。こうして、礼拝する場所をはっきり指さすことが、申命記における礼拝の大きな特色である。荒れ野の旅路では、主が示される「場所」は常に移動していた。しかし、約束の地に入れば、そうした不定期な移動は終わり、主がその「名」を置かれる場所が指定されるのである。礼拝は、示される「場所」に行き、定められた神の「名」を呼ぶことである。

 

主の名を呼ぶとは、主に誉れを帰することである。礼拝する民を、主は「天にあるあなたの聖なる住まいから見下ろして」おられる(15節)。表現は旧約的であるが、礼拝の姿をよく示している。天から、私たちの礼拝を受け入れてくださり、喜びをこめてその礼拝を見つめてくださるのである。このような愛の主に、どのように誉れを帰するか。申命記のこの箇所では、具体的な献げものと、そして言葉による信仰の告白の重要性が教えられる。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました」。この信仰告白は、旧約聖書のなかで最も深く切実な響きを伝えている。多数のイスラエル民族は、ここで「わたし」というひとつにされた集いである。ここに、聖書における礼拝の重大な本質がある。使徒信条を唱え、主の祈りを祈るとき、礼拝に集う私たちは、ひとりの人のように神の前に立つ。

 

父祖アブラハムは、「滅びゆく一アラム人」と表現される。聖書の信仰・信頼の湧き上がる深みを、これほど見事に語る告白はあるまいと思える。私たちも、そのような告白に連なりたい。自分が誰であったかを、忘れていないのである。自分が掘り出された惨めな穴を忘れないことである。信仰に生きる私たちは、いつでも、このように失われたはずの自分を、思い出すことが必要である。そうでなければ、私たちは自分がどこから始めたかを忘れてしまう。それが主への忘恩の始まりである。こうして、申命記の告白は、歴史の中での主の導きと恵みを真剣にふりかえる。それは、主の救いを過去の出来事にするためではない。むしろ反対に、歴史を真剣にふりかえることは、主の恵みを「現在」の恵みとして捕らえなおすために欠かせない。

 

「今日、わたしはあなたの神、主の御前に報告いたします」(3)。主の民は、いつでも「今日」という信仰に生きる。過去の恵みをふりかえる時にも、その恵みが「今日」の私を支えていることを忘れない。神には、単純な「過去」はない。「イエス・キリストはきのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ138節)。信仰の告白は、こうした神の時間、神の歴史、神の永遠の中に招かれて語る特別な言葉である。救いの恵みと感謝を、「今日」新しい言葉にして神に申し上げるのである。「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい」(コリントの信徒への手紙二313節)。

 

 

 

3.身を乗り出してくださる神の真実

 

1718節では、イスラエルが主に向かい、主もまたイスラエルに向かって「誓約」される。神とイスラエルの契約は、このように互いに誓いの言葉を交わすことで成立する。「今日、あなたは誓約した。『主を自分の神とし、その道に従って歩み、掟と戒めと法を守り、御声に聞き従います』と。主もまた、今日、あなたに誓約された。『既に約束したとおり、あなたは宝の民となり、すべての戒めを守るであろう』」。神とイスラエルが、互いに誓いの言葉を相手に聞かせることは、いったい何を示しているのだろうか。それは、神が、民の祈りにこたえ、いつでも御自身を私たちに与える用意をされていることを意味している。私たちが、小さな信仰で神を呼ぶとき、神はいつでも私たちの祈りにこたえて、私たちの祈りの中へ、私たちの困難な生活の中へ来てくださる。

 

礼拝は、神とイスラエルの、契約の真実にもとづく交わり、そして出会いである。この出会いが、私たちをあざむくことはない。娘を悪霊に苦しめられるカナン人の女性が、主イエス・キリストに訴えた嘆きに、キリストはどのような愛をもって、応えてくださったか(マタイ福音書1521以下)。この女性の訴えに、主イエスは最初、はかばかしい答えを示されなかった。冷たく感じられるほど、カナン女性を遠ざけておられた。私たちの礼拝の経験にも、それに似た現実があるのではないか。祈りや賛美が、主の耳に達しないような幻滅と失意を感じて礼拝の場所を立ち去った経験を、だれもが味わったのではないか。

 

祈りがすぐに聞かれない経験、主の御心が不透明で「もどかしい」経験。しかし、カナンの女性がそうだったように、キリストは、必ず私たちの祈りと礼拝に応えてくださる。この異邦人の女性が、ついにキリストの愛に出会ったように、取り立てて著いちじる しい経験といえない平凡な礼拝生活のなかで、主イエスは確実に私たちと出会い、私たちに御自身を与えてくださる。カナン女性は、もはや自分を裏切らないものに出会った。同じように、私たちの礼拝も、迷いやすい人生を決して孤立させず、裏切らない。礼拝は、私たちを裏切らない。礼拝の中に、主はかならず御自身を与えてくださる。主は身を乗り出して私たちに向かい合ってくださる。この恵みを確実に受け取る手、それが神の言葉と約束にもとづく礼拝である。

 

 

 

 

 

   「レビ記における礼拝 ― 神への愛・隣人への愛」             201871日 瑞浪伝道所 学びの資料              

 

    レビ記1117節、19118節                                           代理宣教教師  小野静雄                                    

 

 

1.礼拝は神との出会い

 

レビ記は、神を礼拝するための「祭儀」を定める礼拝規定である。出エジプト記に記された「幕屋」の建設が完了し、神はこの幕屋を通してイスラエルの民に出会い、民と語ってくださる。この幕屋で、どのような礼拝がなされるべきか、そして礼拝する神の民は、実際の生活でどのように神の御旨みむね に沿った生活を生きるべきか。つまり礼拝と実生活という二つの部分を、一つの恵み、一つの課題として教えるのが、レビ記の目的である。「出エジプト」の目的は、くり返し学んだように、礼拝する神の民を生み出すことである。そして礼拝の器としての「幕屋」が、神の指示どおりに建設され、神に献げられたのである。こうして神に献げられた幕屋は、神とイスラエルのために、聖なる器として保たれねばならない。

 

レビ記の主題は、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」という言葉に集約される。この言葉は、いうまでもなくローマの信徒への手紙121節へと反響している。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。これらは、聖書の信仰の本質を教えている。人は神の憐れみによって、自分を神への供え物として献げることが許される。こうして、人は神のものとされ、神はみずからを私たちに与えてくださる。神とその民の「出会いと交わり」こそ、礼拝の中心であり、またそれが信仰に生きる意味でもある。こうしてみると、レビ記という書物は、聖書の礼拝と信仰生活にとって、きわめて重要な位置を占めていることがわかる。

 

レビ記の主題は、礼拝と、神の民の聖なる生活である。神は、礼拝を通して、その民に人生のまことの目的を教えておられる。何よりも、人間が失った「神のかたち」が、礼拝を通して回復されることである。そのために、レビ記では動物による犠牲、つまり罪の贖あがな いの原則と実際が示される。さらに、礼拝によって罪のゆるしを経験した民は、実際の生活においても、「神のかたち」を回復するため、聖なる生活、つまり隣人愛の実践へと召されている。レビ記では、116章までの部分で、幕屋礼拝にかかわる教えが記される。後半の1726章では、隣人の間でいかに生きるか、つまり愛の実践という主題が教えられている。神への愛と隣人への愛。この二つは、別の主題ではなく一つの恵みの両面である。この二つの面を、一つに結びつけるのが、聖書における礼拝である。礼拝は、人間生活から孤立せず、人間生活のすべての意味と局面を含んでいるのである。

 

神との出会い。それは一面では、特定の場所や時間に縛られてはいない。神は普遍的な存在であり、永遠の神だから、いつでも、どこでも、神に出会うことができる。しかし、聖書における礼拝の教えは、神が、ご自分で定めた場所や時間を用いて、イスラエルや教会と出会い、交わりを共にしてくださると教えている。神がモーセに語られたのは、果てしない空間の中でもなければ、時間を超越した永遠の世界でもない。炎に包まれ、燃え上がる柴の間から、神はモーセに語りかけた。神が選ばれる場所、神が選ばれる時間。つまり神は、時間と場所の中で、イスラエルや教会と出会うことを約束された。その事実があるからこそ、私たちが、日曜日を「主の日」と呼び、この日、ふさわしい場所に集うことに、意味と恵みが約束されている。神がその民と出会ってくださる。この真実で堅固な約束が、私たちの礼拝の根拠である。礼拝は、神の恵みと主権のもとにある。

 

レビ記は、イスラエルの民が、祭儀と祝祭を通して一つにされる恵みを示している。レビ記が示す礼拝は、今日の私たちの礼拝とくらべて、あまりにも煩瑣はんさ で、固定された儀式の要素がつよい。それは、神がイスラエルへの礼拝教育のひとつの段階としてとられた方法である。しかし、その煩わずら わしいほどの儀式の向こうに見えるのは、礼拝が、神と人の契約をたしかにするために、欠かすことのできない恵みと招きだ、という事実である。礼拝は、時間と場所をもつ。時間と場所という「器」を通して、神は人との交わりの中へ来てくださる。神は人に近づき、人は神にまみえ、そして人は神の民として聖別され祝福の中へいれられる。儀式は、けっして単なる形式ではない。「儀礼が意識のありかたを整えるのです。儀礼を通して意識は自分自身の内側へはいりこみ、自らを覚醒させておくことができるのです」(E・レヴィナス『タルムード講話』)礼拝儀式は、私たちの魂を、神に向けて目覚めさせるために、欠かせない器だと、レヴィナスは言っているのである。

 

 

 

2.聖なる生活と隣人愛

 

「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」(1918節)。深く、優しく、私たちの魂を打つこの言葉も、新約聖書とりわけ主イエス・キリストの御心へと、まっすぐ繋つな がっている。隣人を愛すること。それはレビ記では、明らかに神への礼拝から直接みちびき出される戒めである。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」。これは、自分を愛するその度合いに応じて、隣人へも愛を注ぎなさい、という意味に取られる場合が多い。この聖句は、自己愛と隣人愛を等分にせよ、という意味だろうか。「あなたは、あなたの隣人に対して、あなた自身と同じような者として友愛をもって接しなさい」(岩波版)。これが、原意に最も近い翻訳と思われる。自分と同じ人間として、隣人を見ることが求められている。あなたと同じ人間、交わりを求め、愛されたいと願う人間、ゆるされ、存在を認められる人間として、あなたは自分の心に隣人を受け入れなさい。

 

このような隣人への視野の転換。その基礎になるのが、神礼拝である。礼拝は、「わたしの安息を守りなさい」という命令と招きである(193節)。安息は、単なる人間の発明ではなく、神がイスラエルと教会に与える贈り物である。安息は、まことの神の愛のもとに留まることである。「わたしはあなたたちの神、主である」(同)。この神との平和を保つこと。そして隣人との和らぎの中に生きること。それが安息であり、それが礼拝の恵みである。「偶像を仰いではならない」(4節)。それは、偶像は人生のこの良い秩序をそこなうからである。神が、私たちの主である。この主のもとにあって、私たちは神の子らであり兄弟姉妹である。礼拝は、イスラエルを神の家族とする。教会は、礼拝を通して神との和解に招かれ、そして主にあって神の家族とされる。

 

礼拝から生まれる交わりと和解。そこにイスラエルと教会の生きる唯一の場所がある。イスラエルは、エジプトの奴隷生活から、恵みによって救い出された。教会は、罪の奴隷状態から、主イエス・キリストの犠牲によって救われ、真理にもとづく自由を与えられた。主の日の礼拝は、この恵みの秩序を映し出す。エジプトの奴隷生活は、惨めでむなしい労役であった。私たちが罪の奴隷であったとき、私たちのあらゆる業は、労働も勉学も家事も育児も、ことごとく空疎な穴だらけの悲しい営みであった。それは、天地が創造される一瞬前に、世界がおちいっていたあの「混沌こんとん」に等しい。イスラエルと教会は、そのような霊的な暗闇から引き出されて、明るい光の中に置かれた。主が、暖かな恵みの業を示して、私たちを混沌と無秩序から救い上げてくださったのである。礼拝は、私たちがあのいまわしい混沌と闇から救われたことへの感謝である。

 

こうして、レビ記における礼拝は、神との交わりと隣人愛へ私たちを導く。神礼拝と隣人愛を、決して分離していない。レビ記における礼拝と安息は、単にイスラエルという限られた種族のためだけではない。神は「貧しい者や寄留者」への配慮を命じる方である。父、母、子ども、主人、労働者と奴隷、そして寄留する他国人。こうした人びとへの、心からの配慮なしに、礼拝と安息がある、という考えは、少なくとも旧約聖書にも新約聖書にもない礼拝観である。つまり、礼拝が神を見失わないと同時に、人間(隣人)を見失ってもいけないことを、レビ記の礼拝は私たちに教えている。   祈り 神をあがめ、隣人をうやまう礼拝者にしてください。アーメン。

 

 

 

 

 

 「出エジプト記における礼拝 ― 幕屋建設とその完成の意味」     201863日 瑞浪伝道所 学びの資料

 

   出エジプト記25122403438節                代理宣教教師 小野静雄

 

1.       礼拝の〈器〉としての幕屋

 

出エジプトの目的は、神がイスラエルの神となり、契約の絆きずな を確かにされることである。神との契約を満たす内容は、一つは十戒という御言葉、いま一つが幕屋による礼拝である。神との契約、神との交わりが、神の言葉と人間の行為、という二つの側面を持っていることは、今、新しい契約の時代を生きる私たちにも共通の恵みである。その意味で、「十戒」「契約の書」の交付が行なわれたのち、直ちに幕屋建設の指示が行なわれていることは、神の導きの迅速じんそく さ、幕屋建設と完成への神御自身の意欲を示している。幕屋の建設は、礼拝への道を確かなものにするための神の招きである。それは命令という意味では律法であるが、礼拝の恵みを約束する意味では、福音そのものと言わねばならない。

 

幕屋建設への神の熱意。それに応えるため、イスラエルの人びとは「進んでこころからささげる献納物」をたずさえる。この建設は、エジプトのファラオから強いられた労働ではなく、神の恵みへの、感謝にあふれた自発的な奉仕である。何よりも、幕屋建設は、神がイスラエルの民とともにあり、民の中に「住む」(8)ためである。神は聖なる方であるから、人間やほかのどの被造物とも同化しない。多神教の世界のように、金銀の像や樹木などと一つになって礼拝される神ではない。

 

しかし、この聖なる神は、人間のただ中に御自身の住まいを定め、人と共に住むことを、自由な恵みによって選ばれる。それは神の国完成のとき、新しい天のエルサレムで行われる礼拝についても同様である。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの涙をことごとくぬぐい取ってくださる」(黙示213節)。つまり幕屋建設は、神の救いの計画全体と、切り離すことのできない関係をもっているのである。

 

最初に指示されている「箱」(契約の箱)は、十戒の2枚の板を収める。長さ120センチ、幅と深さが70センチほどの直方体の箱である。この箱は、エルサレムに神殿が完成するまで、イスラエルの信仰生活を左右する重要な器となる。イスラエルの民にとって、契約の箱は神の約束の確かなしるしであり、神がイスラエルと共におられることの確証であった。その意味でこの箱は、幕屋建設のなかで最も重大な意味をもつ。「贖いの座」(17)といわれるのは、契約の箱のふたである。年に一度の「贖罪日しょくざいび」に、大祭司アロンは雄牛の血を「贖いの座」にふりかけ、罪のゆるしを祈る。「一対のケルビム」は、神の栄光と威厳と聖性をしめす象徴的な模型である。

 

幕屋の建設は、イスラエルの礼拝生活に大きな変化をもたらす。これまで、神はモーセだけに御自身を現し、しかもその現れは、シナイ山のような人から隔たった場所に限られていた。人がたやすく近づけないことが、神の聖なる性質をいっそう際だたせていたのである。しかし、幕屋の礼拝は、神との交わりを人びとに近づけることになる。神は高い山の頂いただき で人を待つ神ではなく、人びとの生活のただ中で出会い、人びとの宿営の中に御自身の住まいをもつ神となられる。

 

また幕屋礼拝は、礼拝と空間(場所)の関係にも重要な意味を与える。神は自分を「時間」の中へ与えてくださるのみでなく、「場所」の中へも与えてくださる。聖書的な礼拝は、旧約時代も新約時代も霊的な本質をもっている。しかし、霊的という意味は、時間や場所をもたない抽象的なものではない。霊的な礼拝は、時間と場所をもち、人間の感覚に働きかける。礼拝は、見えるものであり、聴くべきものである。人の体、声、息遣い、姿勢をもちい、また音色や味覚・触覚など、すべての感覚が用いられる。神は、そのような時間と場所としての世界の中で人と交わり、人を神との交わりへと招いてくださる。体と魂としての人間のすべてが、礼拝において決して軽んじられていないのである。

 

2.       礼拝は人生最良の習慣

 

出エジプト記40章は、幕屋建設とその完了をえがき、完成した幕屋に「主の栄光」を示す雲が満ちたことを報告する。幕屋の完成は、出エジプトという出来事が、その最終目標に到達したことを示している。神はこの幕屋でイスラエルに出会い、罪の赦しをあたえ、神の恵みと和解の言葉を語られる。これこそ、イスラエルの存在の支えである。幕屋を中心に生きることによって、イスラエルは神の選びの民としての一致と共同の歩みへと導かれる。「イスラエル」とは、血統でもなければ自発的な結社でもない。神が、人びとを幕屋礼拝へと招いてくださるとき、イスラエルはイスラエルとなる。この点は、新約のキリスト教会も同じである。礼拝に結集することによって、教会はその存在と生命をあかしする。いわば「我礼拝す、故に我あり」である。

 

幕屋建設の完成。それは人間の喜びであるよりは、神御自身の満足である。キリスト者の生活と奉仕も、人間の満足のためではなく、神の栄光と神を喜ぶことを目指す。幕屋建設という、イスラエルの民始まって以来の大事業も、神の計画と導きなしには始めることも終えることもできなかった。神の恵みに支えられ、幕屋の完成をみる。そこで、イスラエルの民が喜びを覚えたことは当然であろう。しかし、ことの中心は人間の喜びや満足ではない。神の言葉に従うこと、神の命令どおりの仕事が行なわれることが重要である。

 

そして、神はイスラエルの民のこの仕事にも、完成と終わりを与えてくださる。人間の仕事には、しばしば終わりが見えないことがある。種々の雑用と言われるものには終わりが見えない。しかし「その日の苦労は、その日だけで十分である」と言われるキリストは、時間の主であられ、限りなく続くかに見える人生にも、ほんとうの終わり、祝福された完成があることを日々教えてくださる。

 

幕屋の完成は、礼拝の確かさを約束するが、それだけではない。幕屋は、イスラエルの旅路の確かさをも約束する。特にイスラエルの荒れ野の旅は、標識のない旅である。自分で方向を定めることもできない旅である。実線で描かれた道でなく、いつ消えるとも知れない道を手探りで進む。私たちの人生の旅路もそれに似ているのではないだろうか。そのような私たちにとって、礼拝は、人生の道がどこから始まりどこに向かっているかを示す、確実な標識のような意味と役割をもつ。私たちの旅路の最後を知っておられるのは神である。この神への礼拝なしに、旅路の平安を得ることはできない。神が私たちと共におられ、御言葉によってゆく手を照らし、そして最後の日まで私たちの手を引いて放さない。これが礼拝の恵みであり、礼拝的人生の喜びである。

 

幕屋の中に神の栄光が満ち、天幕ぜんたいを神の栄光の雲が覆っている。そのため、モーセ自身も幕屋に入ることができなかったという。これは、神の臨在りんざい が、圧倒的な栄光を備えていることを示すと同時に、神の臨在は指導者モーセだけに制限されていないことを暗示する。神の臨在は、全イスラエルへの約束であり、特定の人間だけに与えられる宗教上の特権などではない。またこの臨在は、どこか一定の場所に限定される「静的」「固定的」なものでないことも重要である。

 

礼拝は「場所」をもつが、決して「場所」に縛られはしない。神の臨在という、この驚くべき奇跡を、どこか一つの場所にとどめておくことはできない。神の臨在の自由さによって、イスラエルの旅路は神の恵みと主権のもとに置かれる。進むことも退くことも、イスラエルの自由気ままではない。「雲が幕屋を離れて昇ると、イスラエルの人々は出発した。・・・雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで、彼らは出発しなかった」。

 

「旅路にあるときはいつもそうした」。イスラエルに新しい習慣が生まれた。神の導きに対して、敏感な民がここに誕生した。言いかえれば、信仰による従順である。荒れ野の旅路は、目的地に達することも一つの意義であるが、旅路の途上でイスラエルが神に従順になることも、それに劣らず重要な意味をもつ。そのために、神の臨在の雲を「見る」訓練が必要である。「すべての人に見えた」。これは単なる自然現象ではなく、信仰の目にこそ見える。神のしるしを見る。そのために必要なことは、霊的な「注意力」である。不注意な者には、神の栄光は隠される。私たちも、御言葉と礼典の恵みへの注意力が増すよう、祈らねばならない。

 

 

 

 

「出エジプト記における礼拝 言葉と祭壇」                  20185月06日 礼拝時資料   小野静雄教師

 

    出エジプト記20126節(特に22節以下)

 

 

 

1.言葉によって

 

出エジプトという出来事は、何を目的にしていたか。何よりもそれは、「礼拝する民」を創り出すことである。エジプトの奴隷生活から、イスラエルの民を解放する恵みは、単なる解放ではなく、単なる独立宣言でもない。まことの礼拝を回復し、神に仕える民をとしてイスラエルを再建するための解放であった。イスラエルを奴隷にしたエジプトは、権力・富・物質貯蔵という価値を最大限に実現した、歴史上もっとも豊かな国家の一つである。神は、イスラエルの民を、そうした権力と物質貯蔵、という価値観の奴隷状態から救出するために、モーセという指導者を起こされた。人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。この自由と恵みに満ちた、霊的な価値観へとイスラエルを導くために、出エジプトの出来事は備えられた。出エジプト記のすべての記述は、まっすぐに「礼拝」を指さしている。

 

出エジプト記2022節以下は、「契約の書」という古い資料が用いられている。神の前に生きるイスラエルの民が、具体的にどのような共同生活をするかが、ここに定められている。すでに20章前半では、「十戒」の言葉が与えられた。この十戒を、実際の社会生活・個人生活のなかでどう実現するかが、「契約の書」という、まとまった文書で示されている。ここには16の項目が教えられているが、その第1が「祭壇について」である。祭壇についての定めは、イスラエルの生活が何よりも「礼拝」中心の生活であることをはっきりと示している。礼拝は、人間のすべての行為の中心また本質であり、礼拝にまさる人間の営みはない。礼拝は、時間と永遠を通して、人が神に献げることのできる最も喜びに満ちたわざであり、これ以外のわざによって追い越されることも乗りこえられることもない、最終のわざであり、神の審判にもっとも確実に耐えることのできる終末のわざである。

 

ここに示される礼拝の本質は、何よりも神の語りである。「わたしが天からあなたたちと語る」22節)。神の言葉が、天と私たちをつなぐ。それが、出エジプト記における礼拝の中心である。この中心に「十戒」という神の戒めと慰めの言葉があることは言うまでもない。十戒は、いかめしい戒律の言葉ではなく、主なるヤハウェ以外にいかなる神をもつ必要もない、自由と解放の福音である。この一人の神が、天から語られる。天は、人間の目ではうかがい知ることのできない霊的な世界である。神は霊である。この聖書の信仰の本質が、すでに出エジプト記ではっきり啓示されている。霊そのものである神が、天から語られる。だからこの神を、地上の何かの「形」として現すことは厳しく禁じられている。

 

神を礼拝するため、神が用いられる器は「言葉」である。神が語られる。そこに礼拝の恵みが開かれる。天にまことの言葉を語る神がおられる。これが聖書の信仰の生命である。この点では、旧約の時代も新約の時代も、なんら違いがないことをこの聖書は教えている。神が言葉によって、私たちとの関係を結ばれる。神は、ご自身を人間の「理解」の中へと来られる。神と人のつながりは、人格的である。人は神の奴隷ではない。神は愛と信頼の言葉を通して、私たちと出会ってくださる。したがって、礼拝を造る何よりも大きな要素は、神がその言葉を語りかけてくださること、そして神の言葉を信頼をもって聴くことである。たしかに、旧約時代の礼拝は儀式の要素が強い。しかし、礼拝の中心はけっして単なる儀式ではなく、神の語りであり、言葉による人間の応答である。罪の告白があり、ゆるしの宣言がある。神の命令と招きがあり、人間の服従と感謝がある。こうして言葉が行き交うなかで、礼拝が霊的な出来事とされる。

 

「あなたの御言葉がみいだされたとき

 

わたしはそれをむさぼるように食べました。

 

あなたの御言葉は、わたしのものとなり

 

わたしの心は喜び踊りました。」     エレミヤ書1516

 

エレミヤは、神の預言者として、深く神の言葉に親しんだ人である。エレミヤは孤独な人であった。嘆きの人であった。それゆえにこそ、神の言葉に親しみ、そして神との親しみに生きることを喜んだ。神の言葉に親しむことが、まことの礼拝をつくる。神の言葉は、なによりも主イエス・キリストの生涯と、その十字架、復活、聖霊の注ぎによって、世界と教会に届いている。だから、礼拝は神の言葉への集中である。神の言葉に屈することであり、神の言葉によって支えられることである。

 

 

 

2.祭壇を通して

 

一方で、礼拝は言葉だけの出来事ではない。聖書と私たちの礼拝においては、言葉はたんなる情報や記号ではなく、そこに存在するいのちである。神の言葉は、神の恵みと真実を担っている。神が「光あれ」と言われると世界に光が満ちた。言葉は、命と体験を生み出すのである。命と体験を、見える形で示す器。それが「祭壇」である。祭壇は礼拝に形を与える。この点で、旧約時代の礼拝とキリスト時代の礼拝には大きな違いがある。とくにプロテスタント教会の礼拝には、「祭壇」という理解はまったく取り除かれている。祭壇は、天にある神の聖所にのみあり、そこではキリストによる犠牲が完成しているから、もはやいかなる新たな「いけにえ」や「犠牲」も求められていない。

 

「契約の書」に示される祭壇は、素朴で質素な建造物である。「土の祭壇」「石の祭壇」は、いずれも自然の産物であり、人工的な装飾は一切考えられていない。この後、モーセを通して示される「幕屋」とくらべて、格段に素朴で飾り気がない。この祭壇で何が起きるのか。「焼き尽くす献げ物」「和解の献げ物」といわれるように、罪のきよめ、神との和解である。人は、その人格全体におよぶ罪の中にある。罪のゆるしなしに、神との交わりはない。旧約時代は、動物の犠牲によって罪のゆるしが約束された。それは、やがてイエス・キリストがご自身を十字架に献げて死なれるまでの、予備的な礼拝方法であった。

 

しかし、方法は予備的であっても、その礼拝を通して人びとが受けたのは、イエス・キリストというまことの小羊の血によるゆるしと和解である。まだ不完全な形ではあったが、人びとはそこでも生ける神に出会い、神との真実な交わりへと招かれていた。聖書の歴史は礼拝の歴史である。旧約から新約へ、礼拝の恵みは格段にすぐれたものとされた。新約時代の私たちは、主イエス・キリストがご自身を献げてくださった愛により、無条件の恵みによって罪のゆるしと永遠の命へと招かれる。しかし、旧約においても、礼拝が神の言葉と霊による真実な約束に基づいていることは疑いない。そうでなければ、どうしてアブラハムのような優れた礼拝者が誕生したか説明できないであろう。詩編に示されるような、まことに深い神へのざんげと感謝、賛美と平安は、彼らの礼拝が、神の約束にもとづく真実な礼拝であったことの、まぎれもない証拠である。

 

神は言われる。「わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する」24節)。祭壇は、何よりも神がイスラエルの民に「臨む」場所、臨在りんざい の場所である。礼拝は、神の臨在が生み出す恵みである。神が、その御言葉と聖霊を贈られるところで、神の臨在が、事実として神の民の上に実現する。神の臨在の場所は、「わたしの名が唱えられるすべての場所」と言われている。礼拝は、神の名が呼ばれ、そして神の名が啓示される出来事である。いまや私たちは、イエス・キリストという名で、恵みと愛に満ちたまことの神を呼ぶことができる。この名を呼ぶとき、キリストは私たちの魂の内に、滅びることも崩れることもない、見えない霊の祭壇を築いてくださる。この祭壇があれば、どこにあっても私たちは生きられる。

 

祈り 私たちに語りかけてくださる神さま。御言葉を聞く耳を与えてください。魂の内に見えない祭壇をつくってください。アーメン。

 

 

 

 

        「世界の中で」「卓越したほとばしり」                     201712月3日 瑞浪伝道所

 

      マタイ福音書26613節                                                                       小 野 静 雄

 

7.“世界の中で”

 

「キリスト教礼拝は「世界の一部の」ではなく、「世界の中」で、であるべきである。キリスト教礼拝はいつもそれがささげられる文化を反映している。話し方の型、服装のスタイル、時間感覚、音楽のリズムやハーモニー、可見的な象徴は広く文化的な文脈に依拠している。同時に、礼拝は文化の奴隷ではあってはならない。キリストの福音とは不和である地域的な文化のいかなる次元でも、礼拝は預言者的であり、挑戦的でありつづける。」

 

 

 

7の特徴は、礼拝が私たちの生きている(生かされ、招かれている)現実の世界や文化と、切り離せない関係にあることを教えている。礼拝は、世界を分離せず(ファリサイ派に与せず!)、「世界の中」にあり、「世界の中」で営まれ、「世界の中」へと送り込まれている。礼拝が、ともすれば孤立したものになりがちな、日本の教会として、とくにこの点での熟慮と反省が求められる。礼拝は、一面では神との交わりである。神関係のこの部分が、礼拝にとってすべてに優先する重要な側面であることは言うまでもない。しかし同時に、礼拝は、キリストの民が目に見える形でその信仰を表現する、またとない機会である。礼拝は、神の恵みと真実を、言葉と行為、見えるものと見えないものの全体によって表現する。そして、真の意味で良い礼拝は、神を信じない人々を、「まことに、神はあなたがたの内におられます」との告白へと導く。

 

日本のキリスト教礼拝は、日本の文化をさまざまな意味で「反映している」。「話し方の型、服装のスタイル」などは、特に文化との親しみの深い点である。日本の説教者は、明らかに他の国々の説教者と、「話し方」の点で違っている。礼拝参加者の話し方も、日本の礼拝には日本的な特色があるかも知れない。「服装のスタイル」となると、日本の牧師や会衆の服装は西洋化されていて、あまり日本文化を反映しているとは言いがたい。「時間感覚」も文化的な特徴を示す。日本の礼拝は、おおむね時間については敏感である。説教にも祈りにも、ある程度、時間の面で約束事がある。パウロの夜の説教が余りに長かったために、エウティコ青年は眠気を催し、3階から転落して死亡した。しかしパウロは青年を生き返らせ、夜明けまで長い間話し続けた(使徒言行録20912節)。

 

礼拝は、さまざまな面で文化の影響を受ける。同時に、文化に影響を与える場合もある。それが「世界の中で」という意味である。しかし、礼拝と文化が完全に一つになることはない。日本のように、「地域的な文化」の多くが、明らかに「福音とは不和である」場合、礼拝が文化から十分な距離をとる必要も否定することができない。孤立してはならず、かといって埋没することもできない。

 

そこで求められるのは、「預言者的」「挑戦的」という特質である。預言者のメッセージは、何よりもその中心に、神の戒めを置いている。「わたしをおいて他に神があってはならない」(第1戒)。これはすべてのキリスト教礼拝の「公理」である。文化はしばしば神の言葉と対立する。神の戒めに反する文化に対しては、福音と律法による真剣な挑戦が行なわれることが求められる。日本の教会も、礼拝が預言者としての精神と責任を負っていることを、さらに深く自覚することが求められよう。

 

 

 

8.“ほとばしり”

 

「キリスト教礼拝は、神の前での我々自身の豊かで卓越したほとばしりであるべきである。礼拝は出し惜しみであるべきではない。イエスの足に注がれた香油のように、我々の礼拝は我々の愛と、我々を創造し贖った神への賛美の、惜しみない流出であるべきである。礼拝は我々の最良のささげものを求める。音楽を実践し、語るべき言葉を準備し、ささげるべきお金と時間の賜物を取っておき、我々の分けることができない注意力を(主なる神に)向けるために、休息を取り、礼拝の用意をするときにこそ、偉大にして恵み深い神にふさわしい種類の卓越さを実践していることになる。」

 

 

 

ここでは、礼拝が神への惜しみない献身であることが告げられる。最もよいものを神に献げるのである。反対に、礼拝が「出し惜しみ」になっていないかが問われる。一人の女性が、きわめて高価な香油を主イエスの頭に注ぎかけ、主の葬りの備えをした。弟子たちは、この女性のしたことを「こんな無駄使い」といって咎とが めたが、主イエスは弟子たちを制止された。そのように、礼拝は私たちを創造し、罪から救い出してくださった方への「惜しみない流出」であるべきである。何よりも、神への愛と賛美、感謝と従順を惜しむことがあってはならない。

 

つまり礼拝は、私たちが備えることのできる「最良のささげもの」であることがふさわしい。具体的には「音楽」「語るべき言葉」「ささげるべきお金と時間」である。礼拝と音楽は、旧約聖書と新約聖書において、切り離せない深さと強さで結びついている。アウグスティーヌスによれば、神は音楽の創造者でもあられる(『音楽論』)。演奏と歌声とをもって、神を賛美することは、音楽の最良の用い方である。語るべき言葉を準備することの重要性は言うまでもない。

 

礼拝は、言葉の献げものでもある。神を讃える歌、祈りの言葉、信仰の告白。それらはいずれも、言葉の献げものとして、神に喜んで受け入れていただくことができる。礼拝と説教言語の関係は、中でも重要である。神の言葉が、信仰と祈りを込めて語られねばならない。そのために、説教に従事する者に求められる注意深さは、これで十分ということがないほどのものである。そして同時に、語られる言葉への信頼と従順が、聴き手による「言葉の奉仕」として重要であることは言うまでもない。

 

「ささげるべきお金と時間の賜物」。時間とお金が、神の賜物であることは言うまでもない。神は私たちに、命を与え、その命を生きるべく時間をたまわった。礼拝は、その意味で時間という賜物をめぐる献げものである。安息日を覚えてこれを聖とせよ。この戒めは、礼拝のための時間が神のものであることを、はっきりと告げている。今日では、「安息日厳守」という表現はあまり用いられない。むしろキリスト教安息日として、日曜礼拝に集うことは、キリスト者の「義務」というよりも「恵み」の招きである。礼拝を通して神に自分を委ねることは、人として生きるために欠かせない祝福である。礼拝を通して、神はその民と出会い、罪の赦しと永遠の命の祝福を注ぎ、私たちの人生のまことの導き手として、御自身を与えてくださる。

 

お金を献げることも、礼拝にとってふさわしく、同時に欠かせない要素である。欧米の一部の教会のように、国民の税金でまかなわれる教会では、「献げる」恵みと訓練を受ける機会を、キリスト者から奪っている。福音的自由教会としての日本のプロテスタント教会は、献げることを、重要な礼拝行為として訓練されてきた。献金も、神の前での我々自身の豊かで卓越したほとばしり」である。

 

何をどのように献げているかは、信仰の中心に属することである。それぞれの生活の中から、それぞれに許された部分を献げる。真剣な献げものが、教会の歩みを支え、伝道と神の国進展のために用いられる。献金は、私たちの地上の人生が、決してこの世に属さず、この世に屈しないことの「あかし」であると、日本の初代プロテスタントの一人、澤山ポーロは教えた。献金は、世からの自立、神の国への信頼と希望の「しるし」―― 澤山はそのように教えている。

 

「分けることができない注意力を向けるために、休息を取り、用意する」。これもきわめて実践的なすすめである。礼拝のために必要な「休息」が必要である。体と心を休ませて、日曜日の朝を迎えるのである。このような休息なしに行なわれる礼拝は、注意力を欠いた散漫なものになる。礼拝は神の前に呼び出されることであり、神からの召集に応じているのである。必要な睡眠、聖書箇所に目を通すこと、祈りをもって備えるなど、神礼拝にふさわしい「用意」があるはずである。席上献金などにも注意を向けるべきではないだろうか。この場合にも、あらかじめ心に決めたものを準備するのが望ましい姿勢であろう。注意をととのえ、真剣に献げることによって、「神の御前での我々自身の豊かで卓越したほとばしり」としての礼拝が、献金を通してもささげられるのである。

 

祈り 礼拝が神の言葉にかなうよう、つねに必要な自己吟味をさせてください。最良の礼拝への道を共に歩ませてください。アーメン。

 

 

 「契約的な礼拝」「三位一体的礼拝」                      20178月 1日 瑞浪伝道所

 

      ヘブライ人への手紙8113節                          小野 静雄

 

  アメリカ改革派教会(CRC)が掲げる、礼拝の8つの原則のうち、今回は第3、第4について学ぶ。

 

3.“契約的”

 

 「キリスト教礼拝は契約的であるべきである。礼拝においては、神の恵みと新しいキリストにおける我々との契約が更新され、肯定され、刻印されるのである。神が我々を喜んで受け入れる関係は、義務的な請負契約関係ではなく、約束に基づく、あるいは自己犠牲的な愛の契約関係である。礼拝は我々に対する神の約束を繰り返し、この契約関係に我々が自らを委ねることを許すのである。どのような礼拝に対しても問うべきひとつの問題は、誠実で、かかわりを求める同伴者としての神に我々が語ることができるかどうかなのである。」

 

 

 

すでに、第1と第2の原則で、キリスト教礼拝は「聖書的」「対話的」であると語られていた。聖書的とは、礼拝を考えるときの最も重要な規準が聖書において示されているという意味である。「対話的」とは、礼拝が神と人の出会いと交わりであり、礼拝は神の働き(語りかけ)に対する民の応答という二つの要素から成っているという意味である。聖書そのものが、神と人の出会いと交わりを、歴史のなかで生じた「対話的」な関係として描いていることは明らかである。神はアブラハムを選び、選ばれたアブラハムは、いかなる苦難のなかでも神への信頼と従順を尽くすのである。

 

礼拝においては、「契約」という絆で神と人が交わりをもつ。礼拝は、神にとっても人にとっても、決して気ままな関係ではない。神は滅びにいたる人間の内から、ご自身の一方的な愛によって、選びの民を定めてくださり、その民のため時いたって、イエス・キリストを世に送ってくださった。イエス・キリストは、神と人の仲保者であり、地上の人生において完全に神の御心に従い、さらに十字架の死によって民の罪を完全に贖い、キリストを信じるすべての人々に、神の子となる特権を与えてくださった。このキリストこそ、恵みの契約の完成者である。

 

こうして、キリストは恵みの契約の仲保者・完成者となられ、キリストを信じるすべての民を、神礼拝という最高の使命へと招かれる。ここに神を礼拝する唯一の道が開かれた。とくに主の日の礼拝は、キリストによる新しい契約関係が「更新され、肯定され、刻印される」特別な機会である。したがってイエス・キリストによって罪ゆるされ、神の子とされた救いの民は、最大の尊敬と愛をこめて、主日の礼拝を重んじるのである。恵みの契約は、神の愛の実現である。だから、礼拝においては何にもまして、神の愛が、そこに集うすべての会衆のために差し出されるべきである。愛を欠いた礼拝は、恵みの契約のもとでの礼拝としての資格を欠いている。神の愛と恵みを確実に届けるため、最大限の注意深さで、礼拝の備えがなされるべきである。礼拝は、「自己犠牲的な愛の契約関係」をさまざまな仕方で指さし表現する。

 

礼拝は、「この契約関係に我々が自らを委ねることを許す」と言われている。礼拝は、生ける神が、大きな愛をもってご自身の民に近づいてくださるときである。神の恵みと真実に、安心して自分を委ねることができる。「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを」(詩編274節)。民が、安らかに自分を神に委ねることができる。そのためにキリストが定められた手立てが、説教、洗礼、主の晩餐である(ウェストミンスター信仰告白、76節)。まさに説教は、恵みの契約への招きでありその定義である。洗礼は、神の愛の中に私たちの住まいがあることを明示する。主の晩餐は、恵みの契約が決して取り消されないことを、くり返し民に約束する。

 

そこで「礼拝に対して問うべきひとつの問題」が明らかになる。それは、地上を旅する神の民にとって、神は誠実な方であり、確かな絆をもっていつもその民に同伴されるという事実が、礼拝をとおして常に明らかにされているか、という問いである。礼拝のすべての要素は、神の誠実さを人々に証しするものでなければならない。神の真実は、けっして疑わしいものとされてはならないのである。言い換えれば、神の誠実さに見合う礼拝行為、礼拝行動が、つねに担保されているような礼拝こそが望ましい。神は、私たちの人生にとって、永遠に変わることのない「同伴者」であられる。イエス・キリストにおいて、神は「インマヌエル」となられたからである。礼拝は、神の臨在を証しすることにおいて、その最高の使命を果たす。

 

 

 

4.“三位一体的”

 

 「キリスト教礼拝は三位一体的であるべきである。礼拝において、我々は三位一体の神―御父、御子、聖霊―三つの人格におけるひとりの神、聖と愛と美と力の神に注意を向ける。神は、我々を恵みをもって礼拝に招き入れ、それから、我々の応答に耳を傾ける方である。神はまた、我々が聞いたことを認識する助けを与え、応答するように促す方である。そこで、礼拝において、我々は(御子なる)神を通し、(聖霊なる)神によって、(父なる)神との関係に導かれる。礼拝は、三位一体の神が我々を間近に導き、水やパン、ぶどう酒のような触れられる物体、さらに、メロディーやリズムやハーモニー、ジェスチャー、ほほ笑み、手のわざを用いて、行動し、養い、我々に挑戦する領域なのである。礼拝において、我々は自分を与える神に我々の注目を向ける。この神中心という焦点がまた、礼拝自体を礼拝するという誘惑から我々を守るのである。」

 

 

 

4の原則は、三位一体論の複雑な論議に私たちを導くのではなく、礼拝が、父と子と聖霊という3つの人格(位格)をもつ方にふさわしい、生命的なもの、多様なもの、時間的・空間的・行動的な行為であることを示している。三位一体の神は、「聖と愛と美と力の神」と言いかえられている。三位一体の神は、自らの内部に、あたたかい愛の交わりをもつ神である。神ご自身が、すでに交わりの中に生きておられる。そして民を、その豊かな愛の交わりへと招く方である。神は、私たちを礼拝へと招き、神を知ることができるよう私たちを助けてくださる。そして神を知る人は、たんなる知的な領域にとどまることなく、恵みに対する生きた応答へと進む。これらがみな、礼拝のさまざまな要素につながっている。歌うこと、祈ること、献げること、信仰を告白すること、聖餐にあずかること。そのすべてが、神への見える応答である。

 

「礼拝において、我々は(御子なる)神を通し、(聖霊なる)神によって、(父なる)神との関係に導かれる」。たとえば、「祈り」は御子キリストを「通して」、聖霊に「よって」、父なる神へと「導かれる」。祈りであれ、賛美であれ、信仰の告白であれ、それらはみな、三位一体の神によってこそ実現する恵みの行動である。この点で、キリスト教礼拝は、ユダヤ教やイスラムの礼拝とは根本的に異なっている。イスラムにおいては、礼拝は男子の「義務」であって、すべての人々への愛の「招き」ではない。ユダヤ教礼拝も仲保者のない不安のなかで、神秘主義と形式主義の間をゆれうごくことになる。こうしてみると、三位一体信仰は、まことの礼拝にとってかけがえのない恵みの真理である。

 

三位一体の神に支えられ、導かれる礼拝は、「水やパン、ぶどう酒のような触れられる物体」つまり歴史と時間のなかで具体的な動きを伴っている。感覚に働きかけ、美しさや力を感じ取らせる。また、「メロディーやリズムやハーモニー、ジェスチャー、ほほ笑み、手のわざ」など、神に近づき、神の栄光をあらわし、神を喜ぶための、さまざまな方法と手段が用いられる。礼拝は、単に抽象的に神を知ることではなく、人間の五感に働いて、私たちを神の「間近に導く」。この近さは、キリストが「肉体」を取って人となられたあの近さである。聖霊が、一人ひとりの上にとどまってくださったあの近さである。神が私たちに近づいてくださる。この神の恵みの接近が、三位一体の神による礼拝の、きわめて重要な特長である。

 

このように神の徹底した近さの中で行なわれる礼拝では、「神中心」という偉大な原則が忘れられることはない。「礼拝自体を礼拝するという誘惑」は、神中心という礼拝の本質からそれたところで起きる。礼拝者が、自分の行為に酔うことであり、自分という狭い場所に神を閉じ込める自己慢心の礼拝である。「タダ神ニノミ栄光アレ」。この真理を覆い隠すような礼拝から、私たちは心して遠ざかるべきである。

 

祈り 神さま、礼拝があなたの栄光と真実を伝える場になりますよう。アーメン。

 

 

 

 「聖書的な礼拝」「対話的な礼拝」                     2017年74日 瑞浪伝道所   

 

  今回は、アメリカ改革派教会(CRC クリスチャン・リフォームド教会)が掲げる8つの礼拝原則について学ぶことにする。この教会は、オランダ改革派教会の末裔まつえい たちが、アメリカに渡って形成した伝統ある教会である。教会の伝統とは、たえず聖書および自分自身と対話する力をもっていることを意味する。CRCは、深い伝統に生きるとともに、みずからの伝統を明確な言葉で、じつに分かりやすく表現することに秀ひい でている。ここに取り上げる礼拝についての原則も、この教会のそうしたすぐれたありかたを、よく示していると思われる。今回は、8つの原則の、第1と第2を学ぶ。

 

 

 

1.“聖書的”

 

キリスト教礼拝は聖書的であるべきである。聖書は、神知識とキリストにおける世界の贖罪を認識する源泉である。礼拝は聖書の卓越した朗読を含むべきである。神の存在、性格、行為を、聖書の教説に一貫している方法によって提示し、叙述すべきである。礼拝の実践については明白な聖書の命令に従い、偽りで不適切な礼拝に関する聖書の警告にはへりくだって身を屈するべきである。礼拝は、聖書がどこに焦点を当てているのか、まず最初に注意を絞るべきである。つまり、すべての被造物の贖い主、聖霊を通して神の国の設立者、その到来の告知者としての、イエス・キリストの人格とわざに集中すべきなのである。」

 

 

 

キリスト教礼拝の原則を語るにあたって、まず「聖書的」であることを挙げることはきわめて自然なことである。聖書こそ、どのような教会であっても、その礼拝を考えるために、決して見失ってはならない規範そのものである。しかし同時に、聖書という規範によって礼拝を律することは、実際に礼拝に取り組む場合に、かならずしも簡単なことではない。聖書は、実際の礼拝行為のすみずみまで、こと細かに定めているわけではないからである。それだけに、聖書的な礼拝とは何かを考える場合、非常に重要なことは、聖書への深い理解と尊敬のこころをいだいてこれを学ぶことである。

 

聖書は、神を知ることと、キリストによる「贖罪しょくざい」の御業を理解するための、ただ一つの源泉であると言われている。ここにはすでに、礼拝が何に取り組むべきか、という重大な原則が語られている。それは、神を知ることへと人々を導くことである。神を知り、神に近づくためにこそ、神は礼拝というもっともすぐれた業を人間に与えてくださった。そこから、礼拝のなかで聖書朗読が占める重要な位置も明らかとなる。聖書朗読は、「神の存在、性格、行為を聖書の教説に一貫している方法によって提示し、叙述」するためになされる。同時にそれは、説教や祈りが目指すべき目標をも示している。神がだれであり、神はなにをして下さるか。それが、礼拝で明らかにされるべき第一のことである。

 

そこから当然、礼拝の種々の行為が、聖書に反するような仕方で行なわれることを避けなければならない。聖書が「明白」に命じていることは、何よりも神を唯一とすること(第1戒)であり、偶像礼拝につながる一切の行為を退けることである(第2戒)。さらに神の「名」を重んじることが続く(第3戒)。キリスト教礼拝は、神がご自身の名を置いてくださる特別な機会である。神は、特定の「時間」のなかでその民と出会ってくださり、また定められた「場所」で人との交わりに応じてくださる。聖書における礼拝者たちは、けっして無時間・無空間のなかで、観念として神を礼拝してはいない。ハガルは「シュル街道に沿う泉のほとり」で主に出会い、サマリアの女は「ヤコブの井戸」のそばで主イエスと語り、最初の弟子たちはエルサレムの2階座敷で聖霊の降臨こうりん を待ち受けたのである。

 

礼拝は「イエス・キリストの人格とわざに集中すべきなのである」と言われている。言うまでもなく、礼拝が取り組むのは、三位一体の神の恵みと交わりである(この原則の4項/次回に学ぶ)。同時にしかし、神の民を礼拝へと招き、神の国の希望へと私たちを導くイエス・キリストが、キリスト教礼拝の焦点であることは疑いない。「聖書がどこに焦点を当てているのか」とこの原則は問いかける。聖書の焦点は、イエス・キリストにおいてご自身を与えてくださる神である。礼拝は、この主イエス・キリストの「人格とわざ」をあがめ、歌い、描き出し、そしてこの方に集中する。キリストへの集中の度合いが、礼拝の良し悪しを決定する最大の要因である。こうして礼拝が、イエス・キリストを紹介する場であれば、礼拝は「伝道」のための最適な機会となるのは疑いない。「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」と言われたキリストの言葉は、礼拝についても真実である(ヨハネ福音書155節)。

 

 

 

2.“対話的”

 

 「キリスト教礼拝は対話的であるべきである。礼拝において、神は語り、神は聞かれる。聖霊の御力によって、神は我々に挑戦し、我々を慰め、我々を覚醒する。そして、聖霊の促しによって、我々は聞き、賛美、告白、嘆願、証言、献身をもって応答する。絶えず民との前向きの積極的な関係において、聖書は率先し、さらに、参与するものとして神を語る。神との健全な生というものは、注意深い聴取と誠実な語りかけとの調和を維持するものである。健全な礼拝はそのように作用する。我々の言葉が礼拝において問題になる理由になるというのは、このことである。御言葉は神が我々に語りかけるために用いられる。そして、御言葉は、我々の賛美と祈りを神にもたらすのである。」

 

 

 

神は、礼拝をとおしてその民と「対話的」関係の中へと来られる。礼拝は、一方では神からの語りかけである。神に聴くこと。そのために神を待ち望むこと。それが礼拝において、まず第1に重要視される。礼拝は、「招き」に始まり「祝福(派遣)」に至る。神が招き、神が祝福をもたらしてくださる。そのようにして神の主権が礼拝を形づくる。創造者・主権者である神への信頼と服従。それが礼拝で起こる最大の恵みである。そのような主権的な神の恵みを受けるため、まず民は聴くことに習熟しゅうじゅく しなければならない。そうするとき、私たちは神が礼拝において何をしておられるかを理解する。つまり「神は我々に挑戦し、我々を慰め、我々を覚醒かくせい」されるのである。

 

このように神の言葉と聖霊によって慰めを受け覚醒を経験した魂・人格として、私たちは神への応答という礼拝のもう一つの部分へと召される。それは、説教を聞くこと、神を賛美すること、信仰の告白、神への嘆願、そして神の恵みを証しすること、献身することである。礼拝は、このような神への真剣で誠実な応答ぬきに行われることはない。説教を聴くことが、神への応答とされていることも重要な指摘である。近年の説教理解では、説教の第1の聞き手がほかでもない神ご自身であると教えられる。これは説教者へのまことに大きな約束であると同時に、ひとつの試練でもある。神が聴いてくださること。それに耐えるような説教は、人間の能力から出てくるわざではない。聖書と聖霊の贈り物としてしか真実な説教はありえない。だからこそ、説教に聴くことが、神への重要な応答となる。説教者も、語りながら聴くのである。そして、心から讃美歌を「歌う」こと、喜びをこめて「祈る」こと、献身の確かなしるしとして「献げる」ことが続く。

 

こうして、礼拝の全体が「対話的」になるとき、「神との健全な生」が約束される、とこの原則は語る。神との健全な生は「注意深い聴取ちょうしゅ と誠実な語りかけとの調和」である。この洞察もきわめて重要である。神の前に静まることと、神に向かって応答することは、分離できない関係にある。神との対話的関係が、人間の生を良質なものとする。それは「神の像」の回復ということと深い関係をもっている。このような対話的関係が、注意深く保たれることにより、礼拝は私たちの生の癒しと回復の器としても用いられる。「我々の言葉が礼拝において問題になる」と言われるのは、人間の言葉が、神の御言葉を脇へと押しやる病やまい のことである。神の言葉が私たちに語りかけ、さらに同じ神の言葉が「我々の賛美と祈りを神にもたらす」。祈りと賛美は、神の言葉に支えられ癒されてはじめて、神への香りよい献げものとなる。

 

祈り わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き、わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。アーメン。

 

 

 「まことの礼拝とは」                            201757日 瑞浪伝道所

                                                                                                                                        代理宣教教師 小野静雄

   ヨハネ福音書4126

 

 

 

1.礼拝では〈何〉が起きているのか?

 

私キリスト者の信仰にとって〈礼拝〉のもつ意味を、どれほど深く探求しても、しすぎることはありません。礼拝は、イエス・キリストを中心として行なわれる、神とその民の交わりです。しかも、〈公的礼拝〉では、この交わりが世界の公同教会の広がりのなかで、公的・世界的に行なわれるという特色をもっています。礼拝は、このような公同的な性質をもっているので、特定の教派や教団への過度な片寄りを慎むことが重要です。もちろん、礼拝にはそれぞれの教派や教団の〈伝統〉が、さまざまな形で(意識的・無意識的に)交じり合っています。教会が受け継ぎ育てた伝統をことごとく取り除いて、中立的・無性格な礼拝が良い礼拝だ、という意味ではありません。教会の伝統に根ざし、しかも伝統をせばめてゆく傾向が問題なのです。

 

礼拝は、最も深い意味で、神とその民の交わりです。神と民の関係が、その礼拝を通して最も豊かに表現されるのが礼拝です。では具体的には、礼拝でどんなことが起きていると見るべきでしょうか。第1に、礼拝は、三位一体の神が世界と宇宙を舞台にして行なっておられる偉大な御業を、いわば小さく模倣するという意味合いをもっていると思います。礼拝で語られる〈説教〉は、神が自身の創造された世界に向けて、絶え間なく語り続けておられる力ある御言葉を、聖書を通してなぞっているのです。

 

また礼拝での〈賛美〉は、創られた世界が神の栄光をたたえている事実を、礼拝という限られた空間で模倣している、とも言えます。すべての造られたものは、神を賛美するという最大の使命をもっています。「主に向かって新しい歌を歌え」という詩編の招きは、招きであると同時に最も福音的な命令です。礼拝は、被造物による神賛美の集約的な表現です。全世界が神にささげている無言の賛美を、楽曲と音声によってささげているのです。礼拝における賛美の位置、音楽の意味を、私たちは深く真剣に受け取るべきです。神の民は、世界の先頭にたって神への賛美に取り組んでいるからです。

 

2に、礼拝は神による〈回復〉という働きを指さし、表現しています。世界も人間も、神なしには失われており、神なしには立ち上がることも自力で回復することもありません。しかし、神は御子イエス・キリストを通して世と和解してくださいました。その結果、人間も世界も、神との交わりを通して、本来の恵みと自由が回復される約束を得ています。礼拝は、そのような回復の恵みと約束を、言葉やしぐさによって表現します。その最大のものは〈洗礼〉でしょう。洗礼が示すのは、罪の赦しと新しい人の誕生・再生です。神は、やがてご自身が創造されたすべてを再生し、新しい天と新しい地を完成されます。礼拝は、この神による偉大な再生の御業を、説教によって描き出し、とりわけ洗礼によって目に見えるかたちで表現します。

 

礼拝におけるこの第2の点は、私たち礼拝者にとってきわめて重要です。ここに、礼拝が私たちにとって〈生きる力〉として働く最大の理由があるからです。罪の結果、失われた人生の確かさは、礼拝によってもう一度確かな基礎を与えられます。罪の結果、私たちは心にも体にも病を負う存在となりました。人生の全体が、弱くされ、神による癒しを必要としています。礼拝は、神の存在の確かさによって支えられることにより、私たちに生きる力と勇気を与える恵みの場、回復の場となります。病も弱さも、礼拝に集うことによって〈相対化〉されるでしょう。罪は、主イエス・キリストによって、もはや絶対の支配力をもちません。同時に、病も絶対の力を私たちの上にふるうことはできません。その意味では、死もまた絶対のものではありません。やがて涙も死も苦難もない、完成した世界〈神の国〉へと私たちは招かれます。礼拝は、やがてくる完成の小さな先取りです。

 

3に、礼拝によって示される恵みは、神の救いとその完成への〈記念〉です。この記念の意味を、最もよく表すのが〈聖餐〉の礼典です。聖餐は、主イエス・キリストの十字架を私たちにはっきりと指さします。教会が世にあるかぎり、キリストの十字架は信仰と生活の重要な柱です。「わたしの記念として行ないなさい」と、すべての時代の教会にキリストは命じられました。記念は、単なる「記憶」ではありません。記念されることによって、十字架の恵みは現実のものとしてそこに存在するようになります。記念は、人ではなく聖霊の御業だからです。

 

聖餐のパンとぶどう汁は、聖霊によって、生けるキリストの現実の体に結び付けられ、信仰をもって聖餐に加わるキリスト者を、真実にキリストと結合します。キリストを記念することによって、私たちは生きる意味を確かにされ、人生の価値を再確認することができます。また、記念が聖霊の御業であることによって、礼拝は、十字架の出来事に結びつくだけでなく、やがて来る完成者キリスト(再臨のキリスト)にも結合されます。礼拝は、新しい時代の先取りです。

 

 

 

2.サマリア人の女性にとって礼拝とは何であったか?

 

このサマリア人女性は、愛の欠けた人生に失望しています。愛する力も、愛される喜びも失い、干からびた辛い人生を生きている人でした。この人は、サマリア人の仲間と共同の暮らしを失っています。人からは後ろ指をさされ、誰もいない昼間の暑い時間に、こっそりと水を汲まねばなりません。こんな生活には、もう飽き飽きしているのです。人生を変えたいという願いがあったのではないでしょうか。「また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(15)。このように惨めな思いをして、水を汲みに来る生活はもうごめんなのです。このように、人生のあり方を変えたいという願いがあり、その小さな願いの芽を、キリストはしっかりつかまれます。

 

人生を変えたい。その願いにつながるのが〈礼拝〉です。このサマリア人女性が、前触れもなく礼拝問題を持ち出しているのは、この人の心に人生を変えたい、できればやり直したいというひそかな願望が芽ばえていたしるしです。自分の生き方に、何か根本的にまちがったものがある。それに気付いているのです。5人の夫をもち、今はまた別の人と暮らしている。愛や共感といった、人生でもっとも重要なものを失っていました。こうして、生きることの惨めさ、苦しさ、恥ずかしさに耐えられなくなったとき、この人は礼拝という問題へと心を向けたのです。礼拝以外に、人生の最終的な解決がないことを、この人はうすうす感じ取っているのではないでしょうか。もちろん、礼拝への期待の感覚を呼びさまし、それをはっきり方向付けてくださる方・キリストがおられてこそ、この女性の方向転換が生まれたのです。

 

礼拝は、私たちの人生に対する神の最終的な解決です。もちろん、すでに見たように、礼拝の最大の目標は、人間の問題でなく神の栄光であり神への賛美です。しかし、神は真実な礼拝へと人間を招くことによって、人生の問題を根本から解決する道は、礼拝以外にないことを教えておられます。礼拝は、神の前に自分がいる、という事実です。神が、私たちの一切の罪と弱さを知っておられて、なおかつ礼拝者を求めておられます。この神の前では、何一つ隠されているものはなく、何一つ隠す必要もありません。サマリア人女性は、主イエス・キリストに全てを知られていて、なお平安でした。キリストに知られるとき、人は自分の弱さを引け目におもう必要はなく、自分をなにか偉いもののように飾り立てる必要もないのです。いまあるがままの〈わたし〉が、神に愛されている。その恵みが礼拝の祝福です。

 

それは、言い換えれば礼拝がまことの〈ゆるし〉を含んでいることを意味しています。礼拝にゆるしがあるので、教会は、礼拝の恵みを決して狭く考えず、できるかぎり多くの人々に心を開いて備えます。「霊と真理をもって父を礼拝する」(23)。これは礼拝を狭くする言葉ではありません。むしろ礼拝を赦しの礼拝とし、聖霊の恵みあふれる礼拝とする、キリストの決意を語る言葉です。「霊と真理」は、イエス・キリストの愛そのものです。主の愛によって築かれ支えられる礼拝。それこそが「霊と真理」の礼拝です。キリストによって開かれた霊と真理の礼拝に、サマリア人女性も招かれました。神のうるわしい御業がこの人の人生をとらえ、人生の回復と癒しが実現し、彼女の存在それ自身が、神の愛の記念になったのです。